【午前十時の映画祭】
『レベッカ』(Rebecca)['40]
監督 アルフレッド・ヒッチコック


 前クールの【午前十時の映画祭】で観た『甘い生活『情事』との併映で昔観た時に、その二週間前に『沈黙』との併映で観ている作品で、それ以来となる再見だった。亡きレベッカの輿入れの際にド・ウィンター家に伴って来たというダンバース夫人(ジュディス・アンダーソン)が新しい女主人(ジョーン・フォンテーン)に向ける悪意にしても、レベッカが夫マキシム(ローレンス・オリヴィエ)に向けた悪意にしても、その因業ぶりの悪質さにおける女性性にたじろがされた。原作者のダフネ・デュ・モーリアは、その名前からすると女性のようだが、女性が女性の悪意を描出すると本当に生半可ではなくて、痛烈だ。

 レベッカに備わっていたとされる完璧な「家柄・知性・美貌」ではなく、「やさしさ・誠実さ・明るさ、そして何よりも謙虚さ」のほうがマキシムには必要なのだからと諭す紳士の弁が作り手の立ち位置だろうし、僕も彼女は何も引け目を感じることはないと思う。だが、亡きレベッカの使用人たちに見下されているとの思いが拭えずに先妻の影に怯えながら、マキシムが交際時には恐らく見せることのなかった癇癪癖に対して、自身の非のほうを詫びる姿さえも「やさしさ・明るさ、そして何よりも謙虚さ」という美徳ゆえとするのは、彼女自身が口にした“愛”よりは納得感がありながらも、どこか違うような気がしなくもない。むしろ、彼女もまた所詮は“完璧な「家柄・知性・美貌」”に惹かれて夫を愛していたように映ってくるところが、なかなか奥深いように感じられた。この部分も含めて、亡きレベッカとダンバース夫人に留まらない“女性の怖さ”を描いていたのなら、ダフネ・デュ・モーリアは、只者ではないと思う。

 また、嫁ぐ前からの従者とはいえ、ダンバース夫人の亡きレベッカに対する心酔ぶりと妄執を思うと、単なる従者には思えず、例えば、レベッカにも明かせなかった実の母娘関係といった秘められた縁があるのではないかという気がした。この得体の知れなさからすると、マキシムのたわいもない癇癪癖やファベル(ジョージ・サンダース)の姑息な恐喝未遂など、男のすることの底はたかだか知れていると改めて思う。

 ファベルの稼業からすれば、レベッカの完璧な家柄とは乖離が大きいから、ファベルの言う「レベッカの従兄弟」というのは、少なくとも血族ではなく姻族ということになるのだろうが、出任せかもしれない。男のつく嘘などというのは、所詮この程度のものだということなのだろうか。

 それにしても、ド・ウィンター家の先祖(キャサリンだったか?キャンベル夫人だったか?)の肖像だとダンバース夫人に騙されてレベッカの仮装をさせられたときのジョーン・フォンテーンの美しさは、これに勝るレベッカの実像が想像しにくいほどに華があって見事だった。クラシック作品の真髄は、実はこういうところにあるような気がする。




推薦テクスト: 「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/archives/207
by ヤマ

'11. 6.11. TOHOシネマズ8



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