【午前十時の映画祭】
『ヤング・ゼネレーション』(Breaking Away)['79]
監督 ピーター・イエーツ


 大学時分の公開時に東京で観て以来の再見だ。当時仲の良かった女友達の好きな作品で、何故だか同じパンフが二冊ずっと我が家にあった。今回、三十年ぶりに再見して、ラストシーンが最も気に入った。若いうちは幾らでもやり直せることを、こんなふうに屈託なく、イタリアかぶれからフレンチに転向して抜け出せる姿で描いていたのかとすっかり忘れていた、なかなか気の利いたエンディングに感心した。

 Breaking Away(抜け出し)は、このように軽やかに爽やかにいきたいものだ。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた親父(ポール・ドゥーリイ)のショットが効いていて、いかにも若者の特権であることが沁みてくる。きっとデイブ(デニス・クリストファー)の家では、これから毎日シャンソンが流れるのだろう。

 デニスが“cutters(石工)”との蔑称で街の大学生たちから呼ばれていた地元出身の幼馴染四人組との関係性のなかで、ある種の抜け出しを必要とするだけの囚われに葛藤を抱いている様子を見て、思い出したことがあった。

 かつて僕には、「高校生活は大学受験のためにあるのではなく、あくまで高校生活として謳歌すべきであり、そのなかでの応分の受験勉強はもちろんすべきだが、最終学年を受験勉強一色にしてしまうのは、二度と訪れない高校三年生の一年間を損なわせることにほかならない」などという能書きを吹聴して、同級生たちが幾人も夏休みに駿台予備校の夏季講座などに出向いているのを尻目に、文芸部の後輩たちと山小屋キャンプに出かけたり、秋になっても体育祭のホームゲームのダンスの音楽編集や振り付けを考えてクラスメートに練習させたり、卒業アルバムの編集委員を担うばかりか、“声の卒業アルバム”だとか言って、クラスの連中の一声を録音して集め、音楽を乗せたり、学校生活の音を混ぜ込んだりした声の寄せ書きをつくる作業に没頭していたことがある。卒業アルバムのクラスの標語に「成れば成る 成らねば成らぬ何事も 成るも成らぬも 事の成行」などという不埒なもじり歌を掲載して、遂には担任教師の説教を食らうに至ったのだが、「受験勉強に徹するのはあくまで浪人の本分であり、自分は高校生としての高校生活を全うしたい」などと嘯いて、音響機材を持っている友人と録音作業や編集プランに才のある友人を半ば強引に巻き込んでいた。

 三人とも浪人覚悟の“高校生活まっとう主義”に殉じる気で結束していたわけだが、あろうことか僕だけが、別の友人に誘われて付き合い受験をした大学に合格してしまい、そのまま進学をするか、不合格となった志望大学を再受験するための浪人を選択するか迫られるなかで、元々大学などというものにさしたるこだわりのなかった僕は、少しは迷ったけれども割にあっさりと、行けるところがあるならそれに越したことはないと早々に進学を決めてしまった。ほかの二人は予定通り全滅で、選択の余地なく浪人が決まっていたのだが、そのとき、東西の違いはあれど、僕と同じく国立一期校を志望大学としていた友人から「まさか一人だけ現役進学するらぁいうことはないろうねや」と笑いながら言われたことがあって、その一刺しにかなり動揺した覚えがある。

 デニスたち四人組においても、一人だけ職に就くことや進学することに対し、結果的に足を引っ張ることになる類の同調圧力が働いている様子が随所に描かれていた。そんな“cutters”の絆の負の側面もきちんと描き出し、また、対置される敵役の大学生たちにしても自転車レースのリトル500を制したカッターズに賞賛の拍手を送るロッド(ハート・ボックナー)の笑顔を置くイーヴンなところが気持ちよく、とりわけ後者についてはソーシャル・ネットワーク['10]のウィンクルボス兄弟の描き方などとは雲泥の差で、三十年の歳月の隔たりを感じた。

 そして、デニスが“Breaking Away”のまだ手前にあって、父親と息子の関係がうまくいっていないときの立ち位置の理想形とも言うべきものを示していた母親を演じていたバーバラ・バリーがなかなか素敵だった。妻の側にも母親の側にも寄り過ぎない絶妙さで、思わぬ高齢妊娠まで遂げていたのには驚かされたが、実に慎ましくも立派だったように思う。

 デニスがカタリーナと呼ぶキャサリン(ロビン・ダグラス)のために、親友シリル(ダニエル・スターン)の助力を得て、夜の女子寮の前でセレナーデを歌う場面のことは、しっかり覚えていたが、当時、よくやるよという気分で観たものが、今は微笑ましく、どこか羨ましくも見えてくることに少々狼狽した。やはり寄る年波による感受の違いというもののような気がする。平和主義のシリルのキャラクター造形がなかなかよくて気に入ってるのだが、デイブのイタリアかぶれの設定は、この夜のセレナーデの場面を設けたくてのものだったのではなかろうか。

 イタリアと言えば、本作でのチンザノの自転車チームは最低だったけれども、同じチンザノのトレーラー運転手は最高で、風除けをしてデニスの記録作りを手伝ってパトカーの停止命令を食らっていたが、この場面は、後に出てくる自転車チームの最低行為を埋め合わせるバランスで設けられていたものだったのかもしれない。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/archives/194
推薦テクスト:「映画の宝庫」より
http://ethanedwards.blog51.fc2.com/blog-entry-126.html
by ヤマ

'11. 5.21. TOHOシネマズ2



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