『やさしい嘘と贈り物』(Lovely,Still)
監督 ニック・ファクラー


 人の生に欠かせない拠り所というのは、妙に頼りない金や地位などよりも“記憶”に他ならないのではないかと感じている自意識過剰傾向の僕にとって、「自分が自分であること」が壊れゆくように感じるらしい認知症にまさる恐ろしい病はないのだが、既に記憶が壊れてしまったならば、記憶を失くしたことを問題にされない“新たな出逢い”としての関わりを生み出そうとしてもらえることのほうが遥かに望ましいことだというのは、どこか観念的に過ぎる気がしなくもないけれども、よく分るような気がした。

 娘の反対を押し切って、敢えてそのような芝居に打って出ることで、メアリー(エレン・バースティン)とロバート(マーティン・ランドー)が得ることのできたものには、確かに掛け替えのないものがあったように感じられ、高齢の男女の出逢いと接近が実に瑞々しく描かれるなかで、メアリーの妻としての心根の美しさと優しさに打たれた。
 演じたエレン・バースティンが何とも素敵で、数日前に観たばかりで記憶に新しかった『鉄道員』のサラの良妻ぶりに優るとも劣らないものがあったように思う。

 けれども、“新たな出逢い”として関わりを生み出そうとすることが、記憶の取り戻しという目的を以って試みられたものであると、やはり最後まで家族であることを秘した接し方を貫き通すことにはならないわけで、結局、中途半端に記憶を呼び戻すことで、ロバートにしてみれば、己が記憶の崩壊に直面する衝撃の再体験になってしまっていたのが悲劇的だったように思う。

 本作の観応えは、まさしくメアリーの愛したスノウグローブさながらに“美しい夢”のような老境男女の触れ合いにあったのだから、とことんファンタジックに押し切るほうが作品的にも一貫性を保った形で完結したような気がする。ところが、ヘンに小賢しくもシリアスな結末を用意したものだから、せっかくの醍醐味の部分が損なわれてしまったように思われてならない。

 それはそれとして、病としての認知症に対する家族の接し方として最も望ましいものというのは、いかなる形のものなのだろう。
 記憶のみならず、時として人格そのものも別人のように変貌してしまうこともあるらしい病に対し、ずっと家族として対処し続けることは、心理的負担が重すぎて、現実的には無理があるような気がする。だから、もはや自分を家族と認知できなくなった時点で、自分の見知っている家族の一員としての対処は断念し、見捨てられない家族であるがゆえに、むしろ“他人”として対処することにならざるを得ないのは、真っ当な向き合い方のように思う。その際、やむなく他人として対処するのではなく、他人であることを積極的に利用して、そこに“新たな出逢い”を講じて、そこから始まる“新たな親密の獲得”を目指すことは、本作ほどのファンタジーには至らずとも、意外と効果的であり、且つ現実的なのかもしれない。
 そんな芝居がかった関わりを実際に行うのは困難なことなのかもしれないが、本作のように、記憶の維持ないし取り戻しのための治療行為としてではなく、それ自体をケア行為として試みることができれば、思いのほか有効なのかもしれないと思った。



推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20100407
by ヤマ

'10.10. 5. 美術館ホール



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