『悪人』を読んで
吉田修一 著<朝日新聞社>


 映画化作品を観たのは、もう五年前になる。そろそろいいかなと思って手にした原作小説を読みながら、映画化作品の脚本の見事さに恐れ入るような気持ちになっていたときには、映画化作品の脚本を原作者自身が担っていたことをすっかり忘れていた。

 清水祐一が、馬込光代に出会う前に出会い系サイトで知り合う石橋佳乃との関わりの更に前に、出会い系の素人ではないヘルス嬢の金子美保に入れ込んでいた話は映画化作品にはなかった気がするが、小説では祐一という人物を語るうえで重要な部分を占めていたし、佳乃が祐一と知り合う前に関係を持った塾講師の林完治の想いとして出てくる素人の娼婦と娼婦の素人なら、どちらがエロティックだろうか…どちらにしろ女に変わりはないが、何かが大きく違っているような気がして仕方がなかった(P143)というものが、本書のタイトルであり主題でもある“悪人とは何か”と同様の提示をしているようにも映る、佳乃(ミア)と美保、そしてこんなにギラギラした性欲を目の当たりにするのは久しぶりだった。こんなにまっすぐに自分を欲する男を見たのは、まだ工場で働き始めたばかりのころ、同じラインにいた先輩社員に残業明けの駐車場で、とつぜん抱きつかれたとき以来だった。決して嫌いな人ではなかった。どちらかと言えば、好意を寄せていた先輩だった。それなのに光代は抵抗して逃げ出した。あまりにもとつぜんだったせいもある。いや、あまりにも自分がそうなることを欲していたせいもある。それを知られるのが恐かった。抱かれたいと思っている自分を、まだ認めることができなかった。 あれからもう十年近くが経つ。この十年、何度もそのときのことを思い出す。あの瞬間に自分が今の人生を選んでしまったような気さえする。あの瞬間、自分がいつも獰猛な男の欲望をどこかで求めている女になってしまったような気がする(P217~P218)という光代の対比の部分が小説では印象深かった。それだけに、映画化作品では潔く割愛していることにも感心した。

 そして、女性とのまともな付き合い方を経験していない祐一の姿を、メールで知り合った光代と会っていきなりラブホテルに入り、性行為の後、無造作に金を渡そうとするという小説には出て来ない場面で端的に示していた映画化作品を巧いと思った。例えばそのように、小説では詳述されている部分を大幅に削りながらも描き出している人物像にほとんどズレのない祐一と佳乃の映画化作品での造形に驚くとともに、脚本演出のみならず、妻夫木聡(祐一)と満島ひかり(佳乃)の表現力に改めて感心させられたように思う。

 このところ続けて読んだ小説紙の月ベイビーローズ拝金などによって触発されていた“バブル風俗の残滓”に通じるようにも感じたメールで知り合った男と会うと、佳乃は必ず眞子に報告した。それが何歳くらいの男で、何をやっている人で、どんな顔なのかを教えてくれるわけではなく、「有名な鉄板焼きの店で、一万五千円もするテンダーロインステーキを奢ってもらったとよ」とか、「その人ね、BMに乗っとるとやん」とか、本人の付属品のようなものだけを(P74)出会い系サイトで知り合うのが恥ずかしいのなら、やめればいいのにと眞子は思う。自分でも恥ずかしいと思っているくせに、こうやって自慢げに男の写真を見せる佳乃の性格が、眞子には理解できなかった。(P76)といったものを十二分に体現していたように思う満島ひかりにとりわけ感心した。

 そのほかの映画化作品で印象深かった場面は、モロ師岡の演じたバスの運転手の場面(P383~P385)にしても、房枝(樹木希林)がヤクザの元に直談判にいく場面(P402~P404)にしても、誰が置いていったのか、目印のようにオレンジ色のスカーフが、ガードレールに巻かれてました(P419)とのスカーフも含め、総てが原作小説にあったことにも唸らされた。とりわけスカーフについては、房枝自身が購入していた小説とは違え、映画では“祐一の優しさの象徴”として彼が祖母に買ってやったものに替えられていたことに驚き、感心させられた。原作小説で美保の回想のなかであの人、私の予想とは違って、「欲しゅうもない金、せびるの、つらかぁ」って言うたんですよね。だけん、「じゃあ、せびらんならいいたい」って私が笑うたら、あの人、ちょっと考え込んで、「……でもさ、(そうせんかったら)どっちも被害者にはなれんたい」って。(P412)と語られていた部分をスカーフに託した脚本だったのだなと思った。原作小説では、房枝のスカーフは彼女の勇気の象徴(P390,P400)として登場していた。採録した掲示板での映画談義でも触れているように、僕は映画のほうのスカーフが好きだ。

 また、映画日誌に世代論に帰結させたりしないよう、佳男に同調する若者の存在を配する工夫と記した鶴田公紀の存在は、原作小説では重要度をより増していて、本作の主題とも言うべき“人間観”にまつわる部分に関してひときわ印象深かった言葉を彼が発していた。あのとき、なんで佳乃さんのお父さんを増尾に会せようと思ったのか、自分でもよう分かりません。雪の中、増尾の足にしがみついとったお父さんの姿を見て、うまく言葉にはできんとですけど、生まれて初めて人の匂いがしたっていうか、それまで人の匂いなんて気にしたこともなかったけど、あのとき、なぜかはっきりと佳乃さんのお父さんの匂いがして。……あのお父さん、増尾と比べると悲しゅうなるくらい小さかったんですよ。 俺、それまでは部屋にこもって映画ばっかり見とったけん、人間が泣いたり、悲しんだり、怒ったり、憎んだりする姿は、腐るほど見とったっちゃけど、人の気持ちに匂いがしたのは、あのときが初めてでした。ちゃんと説明できんとが自分でも悔しいとやけど、あのお父さんが増尾の足に、必死にしがみついとる姿を見た瞬間、なんていうか、今回の事件がはっきりと感じられたっていうか……。 増尾が佳乃さんを峠に蹴り出したときの足の感触とか、蹴り出されたとき、佳乃さんが手のひらをついた地面の冷たさとか、もっと言えば、犯人に首を絞められたときに佳乃さんが見とった空の様子とか、犯人が絞めつける佳乃さんの首の感触とか、そんなものがはっきりと感じられて。 一人の人間がこの世からおらんようになるってことは、ピラミッドの頂点の石がなくなるんじゃなくて、底辺の石が一個なくなることなんやなぁって。 正直、お父さんが増尾に勝てるとは思えませんでした。対決するその場でも、その後の互いの人生でも、きっと勝つのは増尾やろうとは思いました。でも、それでもお父さんに、何か増尾に言い返して欲しかったんやろうと思います。黙ったまま、負けんで欲しかったんやろうって思います。(P388~P389)

 そして、彼が映画好きということで本作にいくつも映画作品のタイトルが出てきていたことも目を惹いた。『処刑人』(P97)、『夏物語』『クレールの膝』(P98)、『死刑台のエレベーター』『市民ケーン』(P198)、『釣りバカ』(P253)といったところだ。

 また、映画化作品にも出てきていたように思う光代の私ね、祐一と会うまで、一日がこげん大切に思えたことなかった。仕事しとったら一日なんてあっという間に終わって、あっという間に一週間が過ぎて、気がつくともう一年……。私、今まで何しとったやろ? なんで今まで祐一に会えんかったとやろ? 今までの一年とここで祐一と過ごす一日やったら、私、迷わずここでの一日ば選ぶ……(P370)という言葉や佳男の今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、何でもできると思い込む。自分には失うものがなかっち、それで自分が強うなった気になっとる。失うものもなければ、欲しいものもない。だけんやろ、自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる。そうじゃなかとよ。本当はそれじゃ駄目とよ(P397)という言葉に触れながら、映画日誌に「この部分が原作でもそうなっていたのかどうかは大いに気になるところだ」と記していた点については、映画化作品のほうが、より明瞭に祐一が“『汚れた顔の天使』ばりに光代に見限らせるような行動に出る”姿として描き出されているように感じた。

 印象の違いは、祐一よりもむしろ光代のほうにあって、原作小説の最後で光代が出会い系サイトで会ったばかりの女を、本気で愛せる男なんておらんですよね? 愛しとったなら、私の首を絞めるはずがないですもんね?…きっと私だけが、一人で舞い上がっとったんです。…あの人は悪人やったんですよね? その悪人を、私が勝手に好きになってしもうただけなんです。ねぇ? そうなんですよね?(P420)という疑問符の連打で終えている原作小説からは、掲示板での映画談義の【光代の選択は、どこにあったのか】といった触発が得られにくいように感じた。その点からは、僕は原作小説よりも映画化作品のほうが優れているような気がする。

 だが、原作小説を読んで改めて得た気付きというのもあって、光代が祐一の自首を翻させた場面での光代の叫びお願い! 私だけ置いていかんで! お願い! もう一人にせんで!…逃げて! 一緒に逃げて!…一緒におって! 私だけ置いていかんで!(P332)に、本作は、母に置き去りにされた祐一、増尾に置き去りにされた佳乃、娘の死によって置き去りにされた佳男という3つの置き去りと、光代の求めに応えて祐一が取りやめずにはいられなかった1つの置き去りの物語だったのだなという感慨を覚えた。
by ヤマ

'15.12. 1. 朝日新聞社 単行本



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>