『キャタピラー』
監督 若松孝二

 昭和四年の『新青年』一月号に掲載された江戸川乱歩の『芋虫』は、日中戦争以前に書かれた作品だから、武勲や勲章の空しさは窺わせながらも、本作のような形での反戦を訴えた作品ではなく、むしろ異形の交わりに恐れと厭いを覚えつつ、次第に嵌っていき、このまったく無力な生きものを、相手の意にさからって責めさいなむことが、彼女にとっては、もうこのうえもない愉悦とさえなっていた(春陽文庫P224)妻が、どんな手段をつくしても、そのときにかぎって…[勃起させることなく]…大きな目を飛び出すばかりにいからして、刺すように時子(妻)の顔を見すえていた(P226)ことに興奮して彼女の夫のたった一つ残っていた外界との窓(P227)である両の目を潰してしまうに至る物語だから、この映画化作品の趣旨とはかなり異なるが、小説の冒頭で妻が違和感と共に思い出す鷲尾老少将の言葉である須永中尉(予備少将は、今でも、あの人間だかなんだかわからないような廃兵を、こっけいにも、昔のいかめしい肩書きで呼ぶのである)、須永中尉の忠烈は、いうまでもなく、わが陸軍の誇りじゃが、それはもう、世に知れ渡っていることだ。だが、おまえさんの貞節は、あの廃人を三年の年月、少しだっていやな顔を見せるではなく、自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話をしている。女房としてあたりまえのことだといってしまえばそれまでじゃが、できないことだ。わしは、まったく感心していますよ。今の世の美談だと思っていますよ。だが、まだまだ先の長い話じゃ。どうか気を変えないで、めんどうを見てあげてくださいよ(P203)といったものが、重く息苦しく彼女を縛っていることが根底にあるのは、共通していたように思う。

 『芋虫』の時子が初めのほどは、世間知らずで、内気者で、文字どおり貞節な妻でしかなかった彼女が、今では、外見はともあれ、心のうちには、身の毛もよだつ情欲の鬼が巣を食って、あわれなかたわ者…の亭主を、…なにか彼女の情欲を満たすだけのために飼ってあるけだものででもあるように、あるいは一種の道具ででもあるように思いなすほどに変わりはてている(P209)のとは異なって、『キャタピラー』のシゲ子(寺島しのぶ)は、夫(大西信満)の尿を取ることで彼に人間としての生を感じることができたことによって世話にも携われるようになるというふうな描き方がされていた。
 四肢に聴覚、発語も失った傷痍の夫に、叶わぬこととはいえ、人としての務め役割を望むところがシゲ子にあるのは、彼を一種の道具ででもあるように思いなすしかもそれが決して木や土でできたものではなく、喜怒哀楽を持った生き物であるという点が、かぎりなき魅力となった(P224)というような倒錯にはなっていないからで、さればこそ「食べて寝て食べて寝て食べて寝て」でしかないことに苛立つわけだ。だから、両者では、傷痍の夫に対する妻の心の向き方が根本的に違っていたような気がする。従って、何も出来なくなったなかで夫に残っていた僅かな能力さえもが“不能”になったときの妻の反応についても、自ずと両者の描き方には隔たりが生じてきたのだろう。

 『芋虫』の時子の場合はあとに残ったものは、不具者なるがゆえに、病的に激しい肉体上の欲望ばかりであった。かれは回復期の胃腸病患者みたいに、ガツガツと食べ物を要求し、時を選ばず彼女の肉体を要求した。時子がそれに応じないときには、かれは偉大なる肉ゴマとなって、気違いのように畳の上をはいまわった。
 時子は最初のあいだ、それがなんだかそら恐ろしく、いとわしかったが、やがて、月日がたつにしたがって、彼女もまた、徐々に肉欲のガキとなりはてていった。…不具者の恥知らずな行為に感化された彼女が、常人に比べてさえじょうぶじょうぶしていた彼女が、今では不具者を困らせるほども、飽くなきものとなりはてた…。
(P223)うえにこのくしくあわれな一個の道具…[の]…たった一つの表情器官であるつぶらな両眼が、彼女の飽くなき要求に対して、あるときはさも悲しげに、あるときはさも腹だたしげに物をいう。しかも、いくら悲しくとも、涙を流すほかには、それをぬぐうすべもなく、いくら腹だたしくとも、彼女をいかくする腕力もなく、ついには彼女の圧倒的な誘惑に耐えかねて、かれもまた異常な病的興奮におちいってしまうのだが、このまったく無力な生きものを、相手の意にさからって責めさいなむことが、彼女にとっては、もうこのうえない愉悦とさえなっていたのである。(P224)から、あんたは、わたしの思うままなんだもの(P226)とはならずに大きな目を飛び出すばかりにいからして、刺すように(P226)見すえられたことに逆上し、両目を潰してしまう。

 『キャタピラー』のシゲ子にも征服感の愉悦は窺えたが、時子のような“肉欲のガキ”は伴っていなかったように思う。そこには、脚本への女性参加の痕跡が窺えなくもないが、それ以上に、今や大きな社会的課題になっている介護についての作り手の問題意識が投影されているような気がした。それはともかく、シゲ子は、夫に“生きた性具”ではなく、人としての存在を求めていたから、その“不能”に対しても逆上するのではなくて、ときに厭わしくもあったものの、僅かに残っていた男としての能力さえも発揮できなくなった夫への情けなさに「あんなに求めていたくせに、どうして…」とその胸を拳で打って嘆いていたのだろう。
 男女の物語としての怖さと奥深さは、原作小説がまさるように思うが、自身に芽生えた“飽くなき残虐性”への自問を垣間よぎらせ悲鳴をあげて、視力を失った夫の胸に指先で、「ユルシテ」と幾度も幾度も書いてみたり、悲しさと罪の意識に、時間のたつのを忘れてしまっていた。(P229)『芋虫』の時子とは全く異なる人物造形を施された介護妻の姿としては、寺島しのぶの熱演もあって大いに観応えがあった気がする。

 僕は『芋虫』で夫が不能と自死を選んだ理由について、自分がとことん無力に存在することが妻を変貌させ、暴虐に狂わせるに至ったことへの恐れからだと受け止めていたが、映画の作り手は、征服感の愉悦を露にするようになってきた妻の姿が図らずも呼び起こした“彼自身の中国での婦女子への残虐行為の記憶”への恐れと悔恨を想定したのだろう。その着想を強調するがために、妻が倒錯した愉悦に性的に耽っていく姿を削ぎ落としたような気がする。そのこともあって、やけにメッセージ色の強い作品になりすぎたきらいがあるようには思う。

 だが、人の残虐性を引き出すのは、“強いストレスに晒されたなかでの圧倒的な力の差”というものであって、性差でも人種差でもなく、時子やシゲ子に限らず多くの普通人に起こるのだということを描いていると思えば、『芋虫』も『キャタピラー』も主題的に通底しているわけで、そこが人間の危うさであり脆さであるのは間違いない。
 とりわけそれが顕著に、大量に現れるのは、兵士に武器を与えて侵略に当たらせる戦争に他ならず、『キャタピラー』では、そのことを強調していたが、二十二年前に観た炎628の日誌によく戦争の悲惨さとか戦争の残酷さということが言われるが、それは「戦争の」ではなく、人間の残酷さであり、人間存在のどうしようもなさに外ならない。と綴ったように、戦争という事態に限らず介護の場や会社、学校、施設などでも小規模に頻発していることなのだと思う。そういった社会的な視点を提示する趣向には向かわず人間存在への探求に向かっていた乱歩の『芋虫』に対して『キャタピラー』の凝らした意匠は、いかにも若松孝二監督作品に似つかわしいものだったような気がする。
 ただ、そのうえでは、シゲ子が夫の出征前に石女だとなじられて暴力を受けていたという脚色には、疑問を感じないではいられない。おそらくは、無力化した夫への嗜虐に口実を与えることで、観る側にシゲ子を受け入れやすくしたのだろうが、そうしたことで主題的な部分が随分と痩せ細った感がある。出征前の夫のDVなしに“強いストレスに晒されたなかでの圧倒的な力の差”のみでシゲ子の残虐性が引き出される姿を描くほうが、断然いいと思う。

 目と呻きでしか感情表現の出来ない久蔵を演じた大西信満は、寺島しのぶ以上に見事だった。訳も分らぬ形で何もできない不具の身になって、全てを妻に頼らなくては生きていられないような事態に見舞われていることへの憤怒をたぎらせた視線と呻きが強烈だった。その憤怒が、徐々に自分への支配欲を恣にし始める妻へと向かっていくことになる。
 『芋虫』にも彼女が「名誉」をけいべつし始めたよりはずいぶん遅れてではあったけれど、廃人もまた「名誉」に飽き飽きしてしまったように見えた。(P223)と記されていた変化については、彼を軍神と讃える「シンブン」と「クンショウ」に向けられる視線に表れていたし、軍神の名のもとに晒し者にされることへも怒りを露にしていた。そうして、ずっと怒りの視線のみを旺盛な食欲とともに振りまいていた久蔵の目に怯えが走り始めたのが、シゲ子に圧し掛かられる形で交わろうとしていたときに甦ってきた“彼自身の中国での婦女子への残虐行為の記憶”だったわけだが、このときの狼狽と怯えの視線もなかなかのものだったように思う。


参照テクスト:掲示板談義の編集採録

推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20100819
推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1563682045&owner_id=425206
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2010kicinemaindex.html#anchor002060
推薦テクスト:「超兄貴ざんすさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1577750837&owner_id=3722815
推薦テクスト:「田舎者の映画的生活」より
http://blog.goo.ne.jp/rainbow2408/e/3b4df18c3ef5c920a7d3a90f34111d55
by ヤマ

'10. 8.29. シネ・リーブル神戸



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