『キャタピラー』をめぐって
映画通信」:(ケイケイさん)
ヤマ(管理人)


  ケイケイさんの掲示板にて
投稿日:2010年 9月14日(火)07時14分
ヤマ(管理人)
 ケイケイさん、こんにちは。
 そうですか、食い足りませんでしたか。「まだですか?」って感じだったのね(笑)。

(ケイケイさん)
 夫の改心をずっと待ってたんですけどねぇ〜。結局待ちぼうけでした。

ヤマ(管理人)
 僕は原作と映画化の違いという観点からかなり興味深く観たのですが、その点で、最も不満だったのは、夫の出征前のDV設定でした。

(ケイケイさん)
 原作にはなかったんですね?

ヤマ(管理人)
 復員後の逆転を見せる妻の姿について、観る側にある種の「口実」を与えてしまうことが、本作の主題的な部分と言えるものをひどく薄めてしまったように思います。虐待され弄ばれるほうにも何らかの「責あり」とはしてはいけない気がします。

(ケイケイさん)
 なるほど。
 私も別にDVはなかったっても良かったと思っています。むしろ仲睦まじかった夫婦が、夫が変わり果てた姿で帰還。戦争のせいで夫婦の仲に凄まじい愛憎が生まれる、という設定の方が、反戦の趣は強くなったと思います。

ヤマ(管理人)
 映画化に際し、脚本で何故そうしたのかを僕は、単に「観客の受け入れ易さへの迎合」というふうに受け止めていたのですが、ケイケイさんの映画日記を読んで、一つ大いなる気付きをいただきました。
 おっしゃるように、本作は“血より濃い夫婦の不思議”を描こうとしていたのかもしれませんね。原作も夫婦でしたが、夫婦というよりも男女の物語だったように思います。映画化に際しての脚色は、反戦ものに仕立て上げるだけでなく、夫婦ものにもしてたんだなぁ。

(ケイケイさん)
 私はその側面の方が強かったと感じました。

ヤマ(管理人)
 面白いと感じたのは、僕が拙日誌に引用した「食べて寝て食べて寝て食べて寝て」は、「食べて」のほうが先で、妻の苛立ちの部分を表すものとしてで、ケイケイさんにおいては、「寝て」が先で、それでもこれから「二人で生きて行きましょう」との意志の強さを表すものとして引用されているところでした。

(ケイケイさん)
 私は苛立ちより、決意のような受け取りました。セリフもありましたけど、寺島しのぶの演技がそう感じさせたんでしょうね。

ヤマ(管理人)
 この文脈を活かしていけば、僕が原作で受け止めた夫の自死の理由に繋がるものが浮かび上がってくるような気がしますが、そうすると、いよいよ夫婦ものになって、作り手が意図した最大の脚色ポイントである反戦ものの押し出しが弱まると思ったのかなぁ。そんなこと全然なくて、そのほうが却って引き立つはずですよねぇ。

(ケイケイさん)
 激しく同意です。
 原作のあらすじをネットで読みましたが、原作通りにした方が、戦争に翻弄された夫婦の哀しみが深く突き刺さって、=反戦の心が強く浮かび上がってきたと思います。国家権力に対しての抵抗より、一つの家庭の苦しみを描き切った方が、数段観客に訴えるものがあると思います。

by ヤマ(編集採録)



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