『祇園祭』('68)
『日本列島』('65)
監督 山内鉄也
監督 熊井啓

 あたご劇場にこれだけの人が集まっている光景は、本当に久しぶりのことで、いささか驚いた。興行というのは本当に難しいものだ。錦之助映画の力ということで片付けられないのは間違いないし、主催した小夏の映画会の田辺氏の奮闘抜きには起こり得ないことながら、それであれば、他の上映会でも集客が果たされなければならなくなる。ともあれ、見せてもらった四十年余り前の作品『祇園祭』は、豪華キャスト時代劇という触れ込みからは予想もつかない意欲作で、かなり驚いた。祇園祭の起源を題材にして行政が出資した映画だと聞いていたものだから、こんなに政治的に踏み込んだ骨太な作品だとは思いもよらず、圧倒されてしまった。


 応仁の乱で荒れた京の都で、苛政に苦しむ農民が引き起こす土一揆に対して、侍方と組んで農民との武装闘争を決行した町衆が、侍支配の構造に巣くう欺瞞と謀略、腐敗、差別に気付き、町衆の心意気を見せて立ち上がる。町衆のなかでも、藍染職人新吉(中村錦之助)や桶職人助松(田村高廣)らの職人方を中心にして、侍方と結託する蔵元の門倉了太夫(小沢栄太郎)らの商人が権勢を振るう月行司と対峙して侍方と対抗していたのだが、熊左(三船敏郎)率いる荒くれ者の馬借衆や伊平(渥美清)が親方を務め武器作りを担う皮革職人、渓谷で石の切り出しに従事している河原者といった被差別階級を含め、階級横断を果たして被支配者側の連帯を果たし、祇園祭の再興によって見せつけようと命を掛ける物語だったところが、なかなかラディカルだ。

 身分制度による階級構造というものが被支配者の分断のために設けられているものであることを直接的に描き出すばかりか、被支配者の連帯と決起を促してもいるわけで、とても行政が出資した作品だとは思えなかった。身分制度を完成し強固に定着させた江戸時代以前の室町時代なればこそ、果たしえたことなのかもしれないが、それで言えば、江戸時代の身分制度を廃した明治時代から数えてちょうど百年を経て、一億総中流などと言われながらも、差別と分断を克服できないでいる社会に留まっているなかで、五百年前に藍染職人新吉らが獲得した連帯をなぜ今、果たせないのかとの問い掛けに繋がっていたような気がする。

 映画のなかで、日本の社会構造そのものが室町時代とさして変わっていないことを示し、'60年代後半当時、顕著になってきていた新左翼間の内ゲバを批判していたようにも感じられる。現代に置き換えれば、国家意識や民族意識の高揚による分断を超えた被支配者の連帯となるし、正社員と派遣社員による分断となるし、当時も今も日本の労働運動が果たし得ないできている企業内組合ではない産別労働組合の組織化といった問題も含んでいるわけで、全く以って、恐れ入った。かような問題を前面に押し出したドラマを行政出資で作ることのできた時代があったことに、心底驚いた。さすがは天下に轟いた蜷川府政だけのことはある。

 キャスト面では、三船敏郎が何とも嵌り役だった。また、早々に登場した岩下志麻の笠布で顔が隠れたまま映し出された唇の艶っぽさにドキリとさせられた。御歳二十七の頃の彼女は、面立ちにふっくら感もあって実に美しかった。



 夕刻になって観た『日本列島』は、『祇園祭』の三年前になる四十五年も前の作品だが、お昼に観た『祇園祭』ほどではないながら、なかなか骨太の政治色の濃い作品だった。敗戦後の独立を果たしたと言いながらも、日本列島は尚もアメリカ支配下にあることが描き出されていたように思う。昭和34年当時を舞台に、アメリカ諜報機関の暗部が引き起こす事件に対して、日本の捜査当局が全く手出しのできない状況を描き、米軍基地を全国各地に配備されたことだけに留まらない日米の結託が仄めかされていた。

 もっともアメリカ軍部さえも捜査に手出しができなかったのだから、日米の側面だけに目を向けるのは偏向かも知れない。とはいえ、旧日本軍の中野学校出身者や元憲兵らが片棒を担いでいる様子が露にされている物語を観ていると、先の『祇園祭』同様に、一見したところ敵ではないはずの内側に姿を見せない真の敵がいるのであって、対抗すべきものは、一口にアメリカと言えるようなものでは決してないことがよく判る。昨年観たばかりの木村祐一監督作品『ニセ札』のことを、ふと思い出した。そう言えば、あれも確か中野学校出身者が暗躍した事件をモデルにした作品だった。
by ヤマ

'10. 1.23. あたご劇場



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