『クロッシング』(Crossing)
監督 キム・テギュン


 脱北するつもりもないのに、脱北に追いやられた男が見舞われる悲劇の物語なのだが、北朝鮮問題に焦点を当てた社会派ドラマではなく、夫婦・父息子の絆と情を描いた人間ドラマだったように思う。ちょうど難病ものの映画の多くが、親子や夫婦あるいは恋人間の絆と情をドラマティックに描くうえでの効果的な設定として難病を取り上げていて、難病問題それ自体を主題としているわけではないように、本作でも北朝鮮問題が主題だったわけではない。だから、韓国からの送金によって収容所からの引き出しを堂々と行なったうえで脱北を取り計らってくれる軍関係者の若い女性の工作員を韓国が潜入させているとも思わせるようなことが実際のことなのかだとか、十年前とはいえ代表チームのサッカー選手として活躍し、国際試合で劇的な逆転ゴールを決めて国家的ヒーローとなって勲章も貰っていたキム・ヨンス(チャ・インピョ)が貧しい炭鉱夫生活を送っている姿が北朝鮮の実情なのかといったことは、あまり問題にすべきことではないような作りの映画だという気がした。

 僕が思わず涙してしまったのは、貧乏生活のなかで自分の食を削って生計をやり繰りしていた妻ヨンハ(ソ・ヨンファ)が栄養失調で結核を患ったうえに妊娠も重なって倒れたために、その薬代を稼ぎに豆満江を渡り国境を越えて中国の朝鮮人自治区に出稼ぎに来ただけのはずが韓国に脱北する羽目になったヨンスが、生き別れたのち行方不明になっていた息子ジュニ(シン・ミョンチョル)とようやく電話で連絡を取ることができた場面だった。父が金を稼いですぐに帰ってくると言った約束を違えて戻らなかったために、筆舌に尽くしがたい苦難を味わったにもかかわらず、そのことを咎めるよりも第一声「ごめんなさい、ごめんなさい、僕、母さんを守れなかった。」と涙声で謝罪の言葉を繰り返した11歳の少年の姿に不意打ちを食らったのだ。ヨンスが脱北する前に、身重の妻に栄養をつけるために息子の可愛がっていた愛犬を殺したことで、彼が父親に掴み掛かって異議を唱えた場面が効いていて、それよりも遥かに辛く苦しい出来事や境遇に見舞われていただけに、意表を突かれるとともに、ジュニのなかに彼が教え育まれていた“長男たるもの”の確かな根付きが偲ばれて、心打たれたのだった。

 それにしても、今なぜ韓国映画で敢えて北朝鮮の家族を描くことによってそれを表現しようとしたのかを思うと、いろいろと興味深い触発が得られた。IMFが乗り出す通貨危機を経て経済復興を果たすなかで韓国では既に失われ、同じ民族の北朝鮮では貧国ながらも、金には替え難いそれを今なお保っている姿を示すことで韓国の失ったものの大きさと価値を訴えようとしていたような気がしたのだった。同じ国の今と昔の対比のなかで似たようなものを提示していたのが日本映画ALLWAYS 三丁目の夕日なら、同じ民族による南北の異なる国の現在の対比のなかで提示していたのが韓国映画『クロッシング』だったような気がしてならない。

 北朝鮮を出て韓国に住むことでヨンスが得た生活の安定と快適さは、その失ったものの大きさ掛け替えのなさと比較して、とても見合わず取り返しのつかないものであることがエンドロールとともにモノクロで映し出されていた、北朝鮮での親子三人が揃って暮らしていた時分の映像によって示されていたような気がする。北朝鮮では、これだけの代償を払うリスクを抱えて出稼ぎにでも行かないと入手できそうにもない薬が、韓国では結核と診断されれば無償で提供されることに愕然としていたヨンスの姿が効いている。薬は無料で貰えても、肝心の家族を失っていては元も子もないわけだが、元々韓国に住んでいる者は、そんなリスクを犯さなくても薬が得られるようになっている代わりに、家族を失う前から、ヨンス一家が示していたような朝鮮民族の誇るべき“家族の情と絆”が失われてしまっているということなのだろう。
 そうしてみると、やはりこの作品は人間ドラマでありながら、社会派ドラマでもあったようだ。但し、その焦点は、北朝鮮問題ではなく、現代韓国社会のほうに当てられていたように思う。



推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20100503
推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1505080301&owner_id=425206
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/1010_1.html
by ヤマ

'10. 6. 3. シネマート心斎橋



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