『ミエルヒ』
HTBスペシャルドラマ

 北海道の江別市在住の学友、と言っても在学中も今も一度も会ったことのない、ネットで知り合った同窓生から奨められて、珍しくTVドラマを観た。居場所と生業というものについて、いろいろ思わせてくれる秀作だった。あまり詳しくは知らない友人ながらも、僕にとっては、その学友が、作中の片方の目を失明して故郷に戻ってきた戦場カメラマンの剛(安田顕)と重なるところがあった点でも、何とも感慨深い作品だった。

 おそらくは失意を抱きながらもそれを内に秘め、クールな自然体を崩すところのなかった剛の人物造形に現実感があるとともに、嫌っていたはずの鄙びた故郷で見つけ、得た癒しの描出に納得感があって、四年前にフラガール『雪に願うこと』を観たときに覚えた違和感を誘われなかったのは、やはり地方局の制作番組だったからなのだろう。
 自分が田舎に暮らしているからだろうが、都会での挫折者の療養場のように田舎が使われるという身勝手な田舎観に対しては、それが憧憬の仮託であったとしても、結局は田舎で癒され再び都会に舞い戻っていくという再生の結末に対して後味の悪さが拭えないのだけれども、本作では、伴侶に巡り会って落ち着くなどという常套要素を敢えて排除した形で、かつて疎んでいたはずの故郷そのものに対して“居場所としての実感”を得るに至っていたところに、好感を覚えた。

 また、稼業とはまた異なる意味での“なりわい”ということについても、それが人の生に必要欠くべからざる点で、まさしく生業という文字を充てることが相応しい意味を持っていることを改めて感じさせてくれたように思う。
 剛の父(泉谷しげる)がろくに獲れなくなったヤツメウナギ漁に毎日出るのも、剛が売るあてもない写真を撮ることを止めないのも、本質的には同じであることが自ずと伝わってくる。決して、役割を得て存在感を発揮できるから居場所となるのではなく、確かな生計を成り立たせることができるから生業となるわけではないのだろう。そうなれば、勿論それに越したことはないのだけれども、個性を十二分に発揮する自己実現を果たしたような役割や存在感が希薄であっても、生計を成り立たせるには不十分ではあっても、人には居場所や生業が必要だし、それが得られていれば、たとえ恵まれた水準にはなくても、人は地に足をつけて生きていくことができるような気がする。華やかに注目される場所と豊かな所得を手にしていても、そこに居場所や生業としての皮膚感覚を得ることができていなければ、人の生は虚しく、生きることに難儀を強いられるような気がしてならない。

 なにも立派な生業である必要はないのだ。必ずしも好きであることも必要ない気がする。「これしかできない」であろうと「これこそがやりたい」であろうと実のところ大差なく、自身がライフワークのようにして携わり続けることのできるものが“なりわい”であり、住み続けられる場所が“居場所”なのだろう。それをそのように意識できるかどうか、再発見できるかどうかが分かれ目なのだろうが、生まれ育った地には必ずそういうものが待っていることを描いた作品だったような気がしている。僕にとっての映画にしても高知という土地にしても、そういうもののように感じている。

 それにしても、鄙の風景ばかり集めてきたものだ。我が地もいい加減、鄙の地ではあるけれども、この作品を観ると、江別ほどではないという気さえしてくるのだが、所得も有効求人倍率も全国最低位で“文化果つる地”などと言われたりした我が地は、西原理恵子あたりに言わせると、“少しまともな人間はみんな出て行くのが普通”というところだから、きっと似たり寄ったりなのだろう。
 本間昭光が担っていた劇中音楽がなかなか効いていて、エンドクレジットとともに聞こえてきた、男声による『時代』(中島みゆき作)の歌声が沁みてきた。


推薦テクスト:「夢屋 よろずがたり」より
http://fgmc.blog87.fc2.com/blog-entry-239.html
by ヤマ

'10. 6. 5. TV鑑賞



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