『ゼロの焦点』
監督 犬童一心

 松本清張の原作は、たぶん遠い昔の学生時分に読んでいるはずなのだが、きれいさっぱり忘れている。そういうなかで映画を観て偲ばれた室田儀作(鹿賀丈史)の人物像が、とても興味深かった。強引な手法で短期間に自己拡張を続けた果てに破綻したと思しき彼が最後に取った行動には、拡張肥大とは相反する自己犠牲が秘められていて、それが何を意味しているのか暫く考えてみた。僕の受け止めとしては、やはり“新しい時代”を切り拓こうと奔走していた妻佐知子(中谷美紀)の想いを汲んでのことだという結論だが、自分自身が追い詰められていたとはいえ、それを利用して妻を庇おうとした動機には、いわゆる“夫婦愛”などよりも“新時代開拓に強迫された同志的共感”のほうが強いように感じられた。

 敗戦によるパラダイムの転換によって当時の人々が蒙ったものには、例えば浮雲のような作品に描き出されていた空漠感というものがあって、本作でも鵜原憲一(西島秀俊)にはそれを引き摺っていたことが強く偲ばれるわけだが、他方で“生き残ったものの務め”として、敗戦のような惨めな事態を二度と招かない新時代の開拓を胸に抱き、戦勝国から渡来した“自由主義”に憑依する形で邁進して自己拡張に励んだ者たちがいて、例えば学生時分に読んだ大宅壮一の『昭和怪物伝』などに綴られた人物を始めとするような人々が牽引する形で驚異の戦後復興を遂げたのが、先の昭和という時代の後半だったように思う。

 おそらく作り手には、そのような時代観が明確にあって、それがゆえの昭和32年の室田儀作と鵜原憲一の人物像であり、ラストシーンに現在の東京が映し出されるのも、この作品のキーワードとしての“戦後復興期の新時代開拓への思い”を強く押し出そうとしていたからなのだろう。鵜原憲一が久子(木村多江)を捨てて禎子(広末涼子)との結婚に向かったことについても、“新しい自分”になれる気持ちが持てたことが大きいように描かれていたのは、そういうことを示していたような気がする。

 大日本帝国時代・敗戦という過去を切捨て、未来のために新しい時代を作るというのは、個人の問題としても社会の問題としても、時代的に要請されていると人々が感じていたものだったという時代観を描いた作品だったことを思うと、平成の時代というのは、“作る”ではなくて“変革”“change”となるような気がする。今や猫も杓子もこのキーワードに囚われていて、それゆえの混乱や本末転倒を避けがたいものとして招きつつ、時代と格闘したり巻き込まれたりしているように思われるが、人々の生き行く“時代”というのは、そういうものなのだろう。個人は常に時代に翻弄されるとしたものだ。そこにさまざまな悲喜劇が生まれ、それによって綾なされるのが人生だという気がする。

 三女優の競演は、それぞれに適材適所で、この三人での役の入れ替えが想定しにくく、なかなか上手く配されていたように思う。人間ドラマとして以上に時代観を描き出すことにおいては、戦前・戦中の澱を些かも身にまとっていない禎子の“良くも悪くもイノセントな存在感”というものがとりわけ重要な役割を負っていて、広末涼子がよく体現していたように思う。代役を立てるとしたら、松たか子しか思いつかないが、その松たか子が出演していた近作『ヴィヨンの妻』と同様に、美術が非常にいい仕事をしていたのが目に付いた。映画はやはりこうでなければいけないと思う。



推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20091119
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1343507505&owner_id=3700229
推薦テクスト:「とめの気ままなお部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/tome-pko/e/0b1ef63bc4482939babd26944678fbf8
by ヤマ

'09.11.15. TOHOシネマズ4



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>