『サマーウォーズ』
監督 細田守

 高校の修学旅行時に皆がトランプなどを持参するなか一人、花札を持ち込んでコイコイに誘い入れていた僕としては、赤タン青タン七タン、三光四光雨四光五光、月見花見に猪鹿蝶と札が踊るのを見るのは妙に嬉しく、面白いと言えば面白く観た映画なのだが、どこか落ち着かない気持ちの悪さが終始付きまとっていたような気がする。


 十年来ネットコミュニケーションを楽しみながらも絵文字を一切使わない僕が、かの2チャンネルにほとんど行かないのは、あそこでの隠語めいた言葉遣いが気に入らないというのが一番の理由だが、根底にあるのはオタク心の乏しさではないかと思っている。ロールプレイングのバーチャルゲームには、ゼルダの伝説やドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーなど、それなりに耽ったこともあったが、自らキャラクター設定するアバターなるものを使ったゲームはしたことがない。アバターというのは、間もなく公開されるジェームズ・キャメロン監督の新作映画のタイトルにもなっているくらいで、かなり一般化している言葉のようだが、“仮想空間の住民”といったものを指しているのではないかと思いつつ、それが単語化してどういうニュアンスを帯び、何を意味する言葉になっているのか今ひとつ判っていない僕からすると、アバターと繋がるためのアカウントがとても大事なものになっている感覚が解らない。なにせ「イノチ」として扱われるのだ。決して「ツール」などではなくなっている。

 そのこと以前に、僕などからすれば、そもそも前提となっている世界中の人が共通の仮想空間に対してアカウントを持っていることの気持ちの悪さが先行してしまう感じがある。僕が、はびこるケータイにファッショ的な同調圧力と周到な大衆操作を感じて、携帯電話を持つことにさえ抵抗している時代錯誤者だからであって、ケータイに何もかも入れてしまって、財布にもクレジットにも、手帳にも通信手段にも、アルバムにも日記にも読書にも、自己検証にも自己確認にも使っている人にとってのケータイを思えば、アカウントを命同様に感じることもあろうかという気はする。だが、ツールを命だと感じてしまう本末転倒など、それがアカウントであれ、ケータイであれ、お金であれ、少なくとも僕はしたくないと思っているから、易々と通信会社の商売戦略に皆が皆こぞって乗ってしまうことが気持ち悪くて仕方ない。


 映画『サマーウォーズ』が、加えて直接的に僕のなかの気持ち悪さを刺激してきた部分は、この作品の背後に漂っている誇大感と全能感のようなものだった気がする。『エヴァンゲリオン』などにも通じるところのある代物で、同様にここでも“覇権と戦闘”に焦点が当たっていて、それが奇妙な“ゲーム感”に支配されている感じが気持ち悪いのだろう。

 欧州中世のハプスブルグ家かメディチ家かのように、何せ世界の全てが、大家族とはいえ陣内家一家の掌中で動いている感じを与えつつ、そこに美化と願望が託されていたのだから、少々口当たりのいい“家族の絆”や“諦めないタフネス”“無名の人々の献身的な協力の輪の広がり”で装飾されてはいても、どこか「ケータイ便利、おしゃれ」の口車に乗せられて、寝食削って通信会社に多額の料金を支払うばかりか、個人情報に対する危機管理をいっさい投げ出してしまって自ら人質に取られることを競い合って無頓着のままでいることへの気持ちの悪さに通じるものを感じないではいられなかったのだという気がする。

 また、この作品のひとつの意欲というか野心として、デジタル文化とアナログ文化の融合を企図しているように感じられたが、それはアナログ文化というよりアナクロ文化で、しかもそこへのアプローチの仕方が、どこかデジタル的というか記号的というか、実のところは全然アナログ的に感じられなかった。そして、仮想空間と現実との融合という面から眺められる作品だろうとも思ったが、仮想空間OZに対置された現実が妙に現実離れしているから、何をやろうとしているかが腑に落ちてこない。陣内家と仮想空間としてのOZを比較すると、むしろ後者のほうに現実感があったような気がするくらいだった。

 エンタテイメントなのだから、そう尖がる必要もないのだが、こういう気持ちの悪さが看過されたままエンタテイメントとして多くの支持を集めてしまう状況こそが、僕にとっては最も気持ちが悪かったのだろう。『エヴァンゲリオン』が熱く支持される状況に対しても、同じようなことを感じる。最後の顛末に典型的に表れていたような気がするのだが、たまたま結果オーライで、あまつさえ思わぬ果報として温泉を掘り当てたりしていたのだけれども、何億人もの人々から「イノチ」たるアカウントを託されたカズマ(声:谷村美月)や健二(声:神木隆之介)、侘助(声:斎藤歩)らが、墜落してくる探査衛星に対処するうえで、陣内家本家を守るために軌道を外しさえすれば、どこに墜落するかは一顧だにしなくて当然という運びにしてあったところに、“つながりの大切さ”を訴えつつも、どこか手前味噌的な正義と全能感というものに対して作り手が無頓着であることが透けて見えるように感じられた。

 そういった事々が気にならず、素直に観られて、素直に作品世界に入っていければ、随分と違った気分になれるのだろうが、そうなるのには、少々僕は天邪鬼すぎるのかもしれない。



参照テクスト:ケイケイさんの「映画通信」掲示板 過去ログ編集採録

推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20090814
推薦テクスト:「ミノさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1258733832&owner_id=2984511
by ヤマ

'09.10. 9. TOHOシネマズ3



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