『パレスチナ1948 NAKBA』
監督 広河隆一

 この作品にも出てきた“インティファーダ”という言葉を僕が記憶したのは、1993年にアラブとイスラエルの映画のみならず、ミシェル・クレイフィ監督のパレスチナ映画も加えた映画祭を開催し、これは東京では絶対にやれない上映企画だと、山形国際ドキュメンタリー映画祭の東京事務局長に褒めてもらった本当の意味での中東映画祭を実施した頃だった気がする。それで言えば、今回「大惨事」と訳されていた“ナクバ”という言葉を、僕は記憶するかもしれない。ナチスドイツによるホロコーストを経験したユダヤ人が、イスラエル建国に際してナチスと同じ志向でもって民族駆逐を図ったというのは、その後のイスラエルの対パレスチナ政策を新聞報道の範囲で垣間見るだけでも驚くには当たらないことではあるが、1948年の70万人の追い出しに“ナクバ”という言葉が与えられていることは、今回初めて知った。
 映画としては、編集がいささか乱暴で、中東問題に詳しい人ならともかく、僕のような程度にしか素地のない者には、時代と場所と民族が飛び交いすぎて、経過の把握がしにくくて少々つらかった。そして、動きのある映像よりも写真のほうにインパクトがあるように感じられたのが興味深かった。
 また、ナクバに見舞われたとある村では60人の村人が抵抗したとの証言があって、村の人口は?との問いに2000人と答えていたことに、納得感と現実感を覚えた。村の人口の3%ということになる。相応感があるように感じる。ナクバによって追われた人口70万人の3%だと、2万人超になるから、絶対数としては相当なものだ。現在のイスラム原理主義の過激派にしても、人口比の%からすれば、そんなものなのではなかろうか。けれども、アメリカ系メディアが掻き立てることによって、まるでイスラム全体が原理主義の過激派であるかのような錯覚を抱かせているところがあるような気がする。今ではかなり緩和されたかもしれないけれども、少なくとも 9.11 の頃は、間違いなくそうだったように思う。
 同様に、イスラエルのユダヤ人は、みなパレスチナに敵対しているかのような気にさせられているが、マツペンという反シオニズム組織がイスラエルにあったことを、この作品は伝え、'60年代の活動家が現在はイスラエルできちんと大学講師の職に就くことができている姿が「人の区別にユダヤもアラブもない。男と女も、大人と子供もない。あるのは、抑圧された者と抑圧する者だけだ。私は、抑圧された者を支持する。」といった言葉とともに捉えられていた。加えて、イスラエル政府の対パレスチナ政策を必ずしも支持はしていないユダヤ人の一般国民、例えば偶々乗り合わせたタクシーの運転手などが普通に存在しているという当たり前の姿を映し出していた。日本の対北朝鮮政策にさまざま意見があるのと、国民レベルでの事情はそう大きくは変わらないのかもしれない。
 しかし、大きく違うのは、政府の姿勢そのものだ。国民レベルで大きな違いがないとすれば、この違いを担保しているのは、まさしく憲法第9条に他ならないという気がした。そして、パレスチナ難民がゴラン高原の居住地を追われて移住してイスラエル領内に住んでいる姿には、ある種、ダム湖による水没にまつわる村ぐるみの移転にも通じるものを感じた。公共事業として補償をしてさえも困難を極め、時間を要し、禍根も残す事柄なのだから、武力行使で問題が収まっていくはずがないと改めて思うとともに、パレスチナ問題を思えば、ダム湖による立ち退き問題が移転補償さえすれば片が付くような代物ではないことに思いが及んだ。
by ヤマ

'09. 9.29. 美術館ホール



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