『真夏のオリオン』('09)
『雲ながるる果てに』('53)
監督 篠原哲雄
監督 家城巳代治

 わずか一日おいた間合いで、制作年次に半世紀以上も開きのある太平洋戦争末期の大日本帝国海軍を描いた作品を観る機会を得た。どちらも共に苛烈な戦況を前にして、清冽に懸命に生きた青年将校を軸にしていて、『真夏のオリオン』で敵方駆逐艦パーシバルのスチュワート艦長(デイビッド・ウイニング)が“ダブル・ラッキー・セブン”と呟いたイ-77潜水艦の倉本艦長(玉木宏)が「少佐」、『雲ながるる果てに』の神風特別攻撃隊として出撃する大瀧(鶴田浩二)・深見(木村功)・松井(高原駿雄)らの学徒航空兵が「中尉」だった。後者は、もろに特攻隊を描いているわけだが、前者でも人間魚雷“回天”が物語のうえで重要な部分を負っており、敗戦を前にした日本軍が若者たちに強いた悲劇の象徴として、特攻隊というものが、歳月を越えて失われない大きな意味を持っていることが浮かび上がっていたように思う。
 戦後十年に満たない時点で制作された『雲ながるる果てに』に痛切に満ちた現実感が際立ち、戦後六十年を経て制作された『真夏のオリオン』にフィクショナルな娯楽性が際立っていたのは、当然のこととはいえ、感慨深いものがある。


 僕は、戦争映画や時代劇を観ていて考証や史実性がやたらと気になるだけの素養を持ち合わせていないから、この『真夏のオリオン』のように、堂々たる造形性のもとに充分な娯楽性を備えた作品を観ると、すんなり楽しめるのが、ありがたい。加えて、この作品には、志というものが感じられるところに惹かれた。

 倉本艦長の信条を表すものとして繰り返された「もったいない」という台詞は、アフリカ人女性の環境保護活動家が感銘を受けた日本語として脚光を浴び、“「もったいない」運動とも呼ばれるムーブメント”を引き起こしている言葉だから、こうして戦争映画のなかで強調するのはかなりリスキーで、ややもすると便乗的軽薄さを印象づけかねないのだが、倉本艦長の判断基準としての価値観と美意識というものが、皇国史観や軍人魂といった権威からのお仕着せによる規律から自立した普遍性の獲得によって形成されていることを窺わせる形に作用することに、からくも成功していたような気がする。

 欧米の戦争映画さながらに、理想的に造形されている倉本艦長の人物像が何とも格好よく、また、敵方の米軍駆逐艦のスチュワート艦長ともども、将たるに相応しい人格と力量を備えていたように思う。そのことが、部下達からの信頼を得、その心を掌握するうえで、いかに重要であるかがよく感じられた。相戦う両軍の将校に敬意を払ったこういうスタイルの戦争映画が日本映画に登場し得たことには、もしかしたら、今年の春の叙勲を受けたイーストウッド監督の硫黄島からの手紙('06)が影響を及ぼしていたのかもしれない。

 やむなき状況のなかでの最善を模索し続けることにブレがこない、ちょうど現首相とは正反対の、例えば「毒を食らわば皿まで」とか「やけくそ」といった言葉との対極にある美意識に支えられた倉本艦長の矜恃に惹かれた。そして、一回りは歳が上回っていると思しき機関長(吉田栄作)が艦長に寄せている信服のほどを表現している場面の節度を保った具合にも好感を抱いた。もっとも全ては、あくまで鈴木水雷員(太賀)の記憶の語っていることなのだが、それだけに、あれだけの理想化にも納得感が持ちやすくなっている気もする。

 古参乗員の誰もが、わずか一年余りの間に心服していた艦長なれば、初乗務の若い新兵にとっては「どうして世の中にはこれだけ立派な人がいるのだろう」との憧れと尊敬の眼差しでもって、眩しく仰ぎ観ずにはいられなかったのも道理だと思えるからだ。倉本艦長が今わの際の有沢艦長とモールス交信し、後にスチュワート艦長に有沢の妹sizuko(北川景子)が譜面にしたためた“真夏のオリオン”を聴かせ、吉兆を呼び込んだハーモニカを、今やイ-77潜水艦乗員の唯一の生き残り兵となった鈴木(鈴木瑞穂)が大事に持っていたのは、当然のことだったように思う。この作品以上に“語り継ぎ”そのものを顕著に映画の作品主題にしていた愛を読むひとと、そのテイストが大きく違っていたことがとても興味深く感じられた。


 翌々日に上映された『雲ながるる果てに』は、戦没学生兵士の手記集を映画化した作品とのことだ。同じく戦没学生兵士の手記である岩波の『きけわだつみの声』は、十代の時分に読んで大いに感銘を受けたが、河出の『雲ながるる果てに』は、今に至るまで読んだことがない。そもそもその存在を知らずに来ていた。

 今回、戦後八年にして製作された学徒航空兵の特攻出陣を描いた映画を観て思ったのは、もっと学徒兵としての苦悩が描かれているのかとの予見がはずれ、そのあたりは少々物足りなかったということだ。それでも、もし仮に当時の彼らの状況に置かれたら、印象深かった三人の中尉、大瀧・深見・松井のうち、自分は誰に最も近い形で状況に臨んだろうとふと思わずにいられないだけの力の宿った作品だった気がする。

 僕の美意識からすれば、大瀧のように最後まで立派に振舞おうと人知れず懸命に努めることや、深見のように真摯に自問し続けるのみならず大瀧に向かって「本当に悠久の大儀だけで君は死ねるのか」と迫ったりすることよりも、もうさっさと済ませてしまうほうがいいと思うと同時に、それまではせいぜい羽根を伸ばそうと遊女通いに耽る松井の身の処し方のほうに共感がある。ある種の観念と余裕の風情を漂わせた高原駿雄がなかなかよかった。

 会場で渡された資料に映画を観た後で目を通すと、脚本に名を連ねた三人のうち、「直居欽哉は特攻隊員として出撃して故障のために生還した経験を持っている」と書かれていた。「二割はいけるんじゃないか」と冷ややかに立てていた予想が当たらず、「思ったほどの戦果じゃなかったな」と呟く金子指令(加藤嘉)に、倉石参謀(岡田英次)が「彼らは半端ものですから」と言葉を継いだ上で「特攻隊員はいくらでもいる」と嘯いていた場面に込められていた職業軍人による“司令部に対する侮蔑と憤慨”には、映画作品から僕が受け取った以上の怨念が籠もっていたのかもしれない。
by ヤマ

'09. 7.17.& 7.19. TOHOシネマズ9 & 龍馬の生まれたまち記念館



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