美術館冬の定期上映会 “生誕100周年記念 カツドウ屋一代 マキノ雅弘映画祭”

①『昨日消えた男』['41] 監督 マキノ正博
②『阿波の踊子(「劔雲鳴門しぶき」改題 短縮版)』['41] 監督 マキノ正博
③『ハナ子さん』['43] 監督 マキノ正博
④『肉体の門』['48] 監督 マキノ正博
⑤『殺陣師段平』['50] 監督 マキノ雅弘
⑥『すっ飛び駕』['52] 監督 マキノ雅弘
⑦『弥太郎笠 前編』['52] 監督 マキノ雅弘
⑧『弥太郎笠 後編』['52] 監督 マキノ雅弘
⑨『浪人街』['57] 監督 マキノ雅弘
⑩『仇討崇禅寺馬場』['57] 監督 マキノ雅弘
⑪『おしどり駕籠』['58] 監督 マキノ雅弘
⑫『江戸っ子繁昌記』['61] 監督 マキノ雅弘
<三日目>
 コミュニティシネマ支援センター日本映画巡回企画第4弾として昨秋打ち出された、山根貞男選出の20作品による“生誕百年 映画監督 マキノ雅弘”の巡回上映会が高知にも来た。初日二日で上映された『血煙高田の馬場』('37)ほかの四作品は観逃したが、そのうち『鴛鴦歌合戦』('39)については、幸いにも11年前の特集上映会“戦前日本映画の名匠”で観ている。今回の上映会は、三日目にしてようやく足を運ぶに至り、四作品を観た。このうち、山根氏が「マキノ雅弘を知らない人に、とにかく文句なしに面白いから必見ですよ、と薦めたいものを選んだ」との選り抜き10本に入っているのは、『阿波の踊子』だったが、僕が最も興味深く観たのは『ハナ子さん』、次に『昨日消えた男』だった。

 『昨日消えた男』は、文吉(長谷川一夫)が刺青をちらりと覗かせたときに、遠山の金さんの亜流のような作品かと思ったのだが、観ているうちに、亜流どころかまさしく遠山南町奉行となって現れるに至り、大いに驚いた。僕などは中村梅之助のテレビドラマで馴染んでいるせいか、北町奉行の金さんだとばかり思っていたのだが、本名が金四郎景元であっても、金さんではなく文吉などという偽名を使って市井に身を置く物語があったわけで、とても思いがけなかった。北町奉行の金さんで定着したのは、戦後になってからということになるようだ。長谷川一夫の舌出しと山田五十鈴のしかめっ面を楽しむ作品だったように思う。僕が子供の時分にはまだ、この表情が愛嬌と親密を交し合うものとして流通していたが、そう言えば、映画でも全く見かけなくなった。思えば、昭和40年代までだったような気がする。
 オープニングの駕篭かきコンビの二人の「なるほどねぇ」「まったくだ」の掛け合いのリズムに惹かれたものの、しつこく繰り返されるのに少々倦んだ。だが、最後まで通し切る意思を窺わせた運びを観ているうちに、次第に出を待つようになり、実際に最後までそれで押し切ったことには、むしろ感心をさせられた。
 『阿波の踊子』が山根氏の十傑に入っていたのは、おそらく終盤の延々と阿波踊りの姿を映し続けていた場面の圧巻に対してなのだろう。確かに圧巻と言えば圧巻なのだが、その長さのインパクト以上の効果を僕にはもたらしてくれなかった。むしろ場面としては、帰って来た男(長谷川一夫)と初めて会ったお京(高峰秀子)が、男の去った後、彼の発した言葉と仕草を部屋に残って一人自分でなぞって演じていた場面が好きだ。
 『ハナ子さん』では、戦時下それも灯火管制や空襲が描かれるに至っている時点での作品とは思えない明るい快活さに恐れ入った。万華鏡を想起させる東宝舞踊団(とクレジットされていた気がする)の白いドレスのレビュー姿を真上から捉えたオープニング映像からして強烈だった。ハナ子の家の父親の“戦時中の家長らしからぬリベラルさ”が女性たちの伸びやかさを醸し出している様子も実に興味深かった。さらには、サラリーマンの五郎さん(灰田勝彦だと思う)が賞与日に一家を招いて食事に出るつもりだったのが、現金で貰えずに戦時国債で支給されて当てが外れるエピソードなど、軍歌や戦時歌謡をミュージカル・ナンバーのように楽しそうに歌う場面の展開に限らず、全編、興味深い場面の連続だった。
 『肉体の門』では、『ハナ子さん』から五年後の轟夕起子が観られるのが楽しみだったが、僕のイメージにある彼女から懸け離れた熱演に感心しつつも、何か無理をしているような違和感が付きまとい、据わりが悪かった。そう数多く観ているわけではないが、轟夕起子は細雪が良かったように思う。精悍でスマートな田崎潤には瞠目した。

 今日観た四作品は、どれもマキノ正博となっていたが、それはともかく目を惹いたのが、戦中戦後に関わらず、どの作品においても“監督”というクレジットがされずに“演出”となっていたことだった。マキノのこだわりなのだろうか。この後、戦後作品をいくつか観ることになるが、どう表示されるか興味深い。


<四日目>
 昨日から気に掛けていた今日の四作品のクレジットは、マキノ雅弘の名前に変わるとともに、総て“監督”と表示されていた。東映・大映・新東宝の作品に転じていることもあるかもしれないが、正博時代に印象深かったモダニズムが影を潜め、粋に向かった感じだ。情への向かい方もより強くなった気がした。

 黒沢明が脚色した『殺陣師段平』では、段平(月形龍之介)が澤正(市川右太衛門)に「あれだけの嬶はいねぇ」と言っていた女房お春(山田五十鈴)との関係以上に、新国劇を創設した澤田正二郎との関係のほうが深く残る作品だったように思う。市川右太衛門にインテリの風貌を感じたのは初めてのことだが、新鮮でなかなかよかった。
 河内山宗俊を大河内傳次郎が演じていた『すっ飛び駕』は、なぜ“すっ飛び駕”なのかがよく分からず、少々大味な気がしたが、お銀を演じた三浦光子の艶っぽさには惹かれた。
 すっ飛びということでは、こちらのほうがよほど“すっ飛び”だった殺陣が最後に待っていた『弥太郎笠 前編』では、弥太郎(鶴田浩二)が市場の吉(河津清三郎)と知り合い、兄弟分になっていく旅道中がなかなか良かったが、多分これが山根十傑に挙げられているのは、昨日観た『阿波の踊子』同様に、松井田宿の盆踊りを繰り返し映し出しつつ、踊りにまぎれて刺殺するプロットの使い方と、盆踊りに呼応させる形で交互に映し出していた、バレエを想起させるような流れる速さで弥太郎が斬って斬って斬りまくっていく殺陣の場面に理由があるのだろう。前編・後編とも、三度笠投げで始まり三度笠投げで終わる型の付けようは、形を重んじる人らしい感じが現れていたように思う。

 それにしても、あの明るく快活なモダニズムは、何処へ行ってしまったのだろう。敗戦とともに捨て去られ、任侠の世界の粋や義理に向かっていったように思われるのだが、底流にはかっこよさへの憧れがあって、それを追求していた点では変わりなく、敗戦を機に、洋風ハイカラから和の粋に転じていったということなのだろう。そうしてみると、改めて先ごろ観たばかりの高橋伴明監督の丘を越えてが、なかなか大した作品だったことに思い至る気がした。


<五日目>
 昭和三十年代に入ってからの四作品のうちで山根十傑に入っているのは『おしどり駕籠』だけだったが、僕が最も心惹かれたのは『仇討崇禅寺馬場』だった。翌六日目は主に四十年代になってからの時代劇ではないヤクザ映画ばかりが並ぶことになるから、時代劇を撮れたのは、このあたりまでだったのだろう。

 『浪人街』は、チラシによれば、正博時代の出世作の自身によるリメイク作とのことだが、造形されたキャラクターのイメージが僕のなかで人物像となってうまく結びついて来なかったのが難だった。一筋縄ではいかない複雑な性格を持ったキャラクターを作っていたのだとしても、あまりにちぐはぐな感じが拭えなかったように思う。遠い記憶で覚束ないところがあるけれども、これなら亡き黒木和雄監督がリメイクした『浪人街 RONINGAI』('90)のほうが面白かったような気がする。
 『仇討崇禅寺馬場』では、何と言っても、不器用な真面目さが仇になって不幸な運命に翻弄され堕ちていく生田伝八郎が大友柳太郎の持ち味にぴたりと嵌っていて魅せられた。背筋の伸びた殺陣の身のこなしの美しさも印象深い。御前試合での柳生何某の姑息で不届きな判定が、果てには伝八郎を狂気の淵にまで追いやることになるとまでは思ってなかったろうが、人生というのは、存外そうしたことで左右されていくのかもしれない。伝八郎の不運は、柳生の判定を主君が咎めるどころか矛先を彼のほうに向けてきたことで倍化し、さらには妻(風見章子)の冷たく心ない仕打ちで決定的になったわけだが、彼らに共通していた“我が都合しか見えない狭量”というのは、決して珍しいものではない。その狭量なる者が他者に対して大きな影響を及ぼし得る力を有していることも決して珍しいことではない。皆々伝八郎に対して取り立てての悪意も憎しみも抱かずして彼を狂気の淵にまで追いやるところが恐ろしい。そこに至る最後の段階の詰め王手をかけたのは進藤英太郎扮する万造一家の鉄火娘お勝(千原しのぶ)だったが、彼女もまた“己が恋情しか見えない狭量”にて良かれと思い取った行動が伝八郎を追い詰めるわけで、彼の不運と不幸の決定的な部分を握っていたのが共に女性だったのが興味深かった。
 中村錦之助と美空ひばりが競演したミュージカル色の濃い『おしどり駕籠』は、マキノの初カラー作品だそうだが、正博時代のものと比べて踊りの要素が大きく後退している分、色はついていても華の点からは見劣りがしたように思う。藩主の若殿(中村錦之助)が江戸に出て左官職人をしていながらお家騒動の窮地に国許へ戻って悪企みの成敗をする物語にしているのは、身奇麗にしたときの錦之助に際立つ気品を町人風情とのギャップのなかで引き立てるためのものだったかと思うほど、引き立っていたように思う。ただ、悪企みの黒幕家老に情けを掛けて改心させる一方で、家老の手下として命に従っていたに過ぎない木っ端侍たちを虫けら同然のようにして数々斬って捨てていたのは、立ち回りの見せ場作りのためとはいえ、妙に割り切れないものが残った。ましてや一番の悪党を許した理由の根底に幼馴染の家老の娘の心労が作用しているのでは、罪刑法定主義を持ち出すような時代ではないにしても、御法度としてどうなのかという気がしなくもない。
 『江戸っ子繁昌記』もまた、旗本と魚屋という身分違いのいでたちを錦之助一人に充てて『おしどり駕籠』にも通じる趣向で役者を引き立てる作品だった。趣向は、旗本錦之助で『番町皿屋敷』、魚屋錦之助で『芝浜』を盛り込み、両者を繋ぐのに『魚屋宗五郎』を使うという落語・歌舞伎といった古典芸能をモチーフにした筋立てなのだが、勝でも宗五郎でもない勝五郎という名の魚屋の酔態が見事で、錦之助に感心しつつ、鉄山でも主膳でもない青山播磨とお菊に純愛を設えてあるところが物語としての妙味だったが、筋立ての運びに締りがなく少々ダレを感じた。市民劇場の例会で前進座による『芝浜の革財布』や『魚屋宗五郎』を観た覚えがあるが、古典芸能的な型と伝統の感じられる台詞回しが似合うような演目から、敢えてそういう部分を剥ぎ取っていることが功を奏しているようには思えなかった。




参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
https://moak.jp/event/performing_arts/post_95.html

by ヤマ

'09. 1.3.~2.15. 県立美術館ホール



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