『丘を越えて』
監督 高橋伴明


 上映会主催者から注目どころの寄稿を求められ、とさピクが上映会の根拠地にしている自由民権記念館が、八年前に開館十周年記念展として『ニッポン・モダン・ライフ100年』と題する資料展を行い、併せて“モガ・モボたちの映画祭”を開催したことがある。昭和初期当時に現代風の若者の呼称として流行した“モダンガール・モダンボーイの略称”を掲げていたわけだが、ちょうどその頃を描いた作品で、池脇千鶴の演じる葉子のモガのありようが、僕の一番の注目どころだ。
 僕のなかでは、文学者として以上に、文壇のボスとして君臨していたイメージの強い菊池寛だが、彼の秘書だった実在女性をモデルにした原作の映画化作品らしい。OLという言葉が登場する前のBGがどのように描かれているかが興味深い。どんなふうに当時の男社会に向かっていたのかを窺わせてくれるなら、楽しみだ。おそらくは、菊池寛がその強大な男社会の功罪を併せて仮託されているのだろう。彼女が越えようとする丘が菊池寛すなわち男社会ということでのタイトルなんだろうと想像している。まるで外れていたら、それはそれで楽しみなんだけど。
と書いていたのだが、日中戦争の発端となった1937年の盧溝橋事件の勃発を報じるラジオ放送で本編を終え、エンディングへ向かった作品なれば、丘は菊池ではなく、やはり時代だったのだろう。
 越えるべき丘に喩える人物がもしいたとすれば、細川葉子(池脇千鶴)にとっての菊池寛(西田敏行)ではなく、菊池寛にとっての夏目漱石だったところが僕の予想の埒外で、意表を突かれるとともに大いに刺激的だった。葉子が馬海松(西島秀俊)に「菊池先生の『心の王國』という本の題は、夏目先生の『こゝろ』を越えようとしたものだと思います。」と言う台詞が猪瀬直樹の原作『こころの王国』にもあったものかどうか興味深いところだ。“生活第一、芸術第二”を信条とし、「自分の国のことを“日本は滅びるね。”などと他人事のように言うのは、これは広田先生の台詞だけれども、僕は好かない。」と漱石批判をする菊池像は、仮に馬海松の言うとおり、丸山薫の“汽車に乗って あいるらんどのような田舎へ行こう”という詩を読み上げつつ、日本と朝鮮の関係はイギリスとアイルランドの関係に似ていると講義したばかりに、菊池の嫌う“高等遊民”ではあっても、朝鮮人である彼を馘首できないでいたのだとしたら、僕のなかにあった“文壇のボスとして君臨するイメージ”とは、随分と趣の異なるものにもなってくるわけで、そこが面白かった。菊池寛が小説家に留まらず、優れたジャーナリストでもあった面を端的に示すという点から観ても、なかなか巧いエピソードの利かし方だと感心させられた。
 馬海松の存在がとても効いていて、一見したところ不躾でノンシャランに見せながら、本当のところは非常に知的でデリカシーと節操に富んだ人物で、葉子が魅せられることに納得感があると同時に、対照効果をあげつつ菊池の人物像を浮かび上がらせる形の役割を果たしていたように思う。彼は葉子に「日本人が目にする朝鮮人は、みんな貧しくて学問もないけれども、それは日本人がそうしたのではなくて、一番悪いのは李朝と両班だ。」と語っていたが、“ヤンバン”という音を耳にして血と骨('04)について在日韓国人の方と交わしたメール談義のことを思い出した。差別の構造を生み出すのは、原理的には国籍や人種ではなく階級・階層なのだが、それを緩和し偽装するために国籍や人種へのすり替えが行われるものだと僕は常々思っている。両班の出身の馬海松にそのように語らせ、“高等遊民”を自称させて屈託を窺わせるとともに、気概も自負も与えていたところに映画作品としての品性が現れていたように思う。馬から彼が朝鮮人であることを一切気に掛けているふうでないと質された葉子が「私、聡明だから」と軽口で応えた後、「正直なだけ」と微笑んだ場面がとても素敵だった。靱さと可愛らしさを同時に放射する女性を演じることに長けた池脇千鶴の個性がよく活かされた作品だったように思う。
 この対照的な二面が混交された個性の醸し出す魅力という点で、“靱さと可愛らしさ”ということ以上に前面に出てきていたのが“モダニズムと江戸前の香り”だったように思う。高等女学校を卒業し出版社勤めを志して果たすことや誘いつつも手は出さない馬海松に自分のほうから迫ることなどに現れている行動力や自己決定心が、洋装の出で立ち以上に新婦人としてのモダニズムを体現している一方で、心臓発作を起こした菊池社長の様子に動転し咄嗟に胸に顔を合わせて撫でさすりながら「おんころころ せんだりまとうぎそわか」と真言を繰り返し唱えて治めようとしたり、江戸前の地口が“芸術ではなく生活の言葉”として身に染み付いているのが細川葉子だったわけだ。
 そして、この対照的とも言える二面を、併せ持つのではなく混交させた個性として発揮することのできる器の大きさというものが彼女の魅力であり、それと同質のものが菊池寛という人物の魅力の本質だったというのが、この作品で作り手の意図していたところだったように思う。菊池こそは、葉子以上に洋風モダニズムと理知に憧れつつ、和の風俗と人情に囚われた愛すべき巨人で、理と知に偏った漱石よりも大きな人物だったというのが、作り手の思いなのだろう。確かに、理知では漱石の足元に及ばなくとも、知に働いて実業家として成功し、情に棹さして流れ放題に流され、意地を通して文壇に君臨した菊池寛は、「兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。……越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。こゝに詩人といふ天職が出来て、ここに画家といふ使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。」などと山路を登りながら考えた『草枕』の「余」とは、器の大きさが違うとも言えるような気がした。
 目を惹いたエンディングの場面は、この映画が昭和初期のモダニズムを扱った作品であるが故に、やはり戦前の日本映画で最もモダンな作品のひとつとされているマキノ正博の『鴛鴦歌合戦』('39)を踏まえているのだろう。馬海松が「あいるらんどのような田舎へ行こう」と葉子の前で暗唱していた詩には「ひとびとが祭りの日傘をくるくるまわし」という一節があったから、そこからの着想なのかもしれないが、おそらくは原作にないと思われる場面で、映画の作り手が映画好きの心をくすぐるために仕掛けたものだったような気がする。まんまと乗せられ、にんまりしながら観ていた。“生活第一、芸術第二”を信条とした、なかなか大した作品だと思った。
by ヤマ

'08. 8.22. 自由民権記念館民権ホール



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