『グラン・トリノ』をめぐって
(tsuyoさん)
銀の人魚の海」:(アリエルさん)
(TAOさん)
(スーダラさん)
(大倉さん)
映画通信」:(ケイケイさん)
(olddogさん)
ヤマ(管理人)


  ◎tsuyoさんとの対話(2009年06月11日 22:41)から

ヤマ(管理人)
 こんにちは。お久しぶりです。
 tsuyoさんは、あの懺悔の場に「失望」を見出しましたか。ちょっと思い掛けなかったです。面白いと思いました。
 失望なれば、「望」があったということになりますが、ウォルトが何を望んでいたとtsuyoさんは観ていたのか、教えていただけると嬉しいです。

(tsuyoさん)
 こんにちは。おひさしぶりです。
 あのシーンでは、やはりウォルトは(「懺悔」という行為の目的である)「赦し」を求めていたのだと思います。
 神父の再三に渡る誘いを断り続けていながら、実は彼が過去の行いに対する「赦し」(あるいは解き放たれること)を求めていたのは明らかですが、それが果たされるものではないということも、彼にはよく分かっている。それでも最後の行動に出る前に自発的に「懺悔」に赴くわけですが、神父はウォルトに対して(神の使いとして)何の有効性も持てなかったばかりか、足りない言葉と型どおりの返答で、ウォルトをがっかりさせてしまった。
 ―というのが、僕の感じたことです。観てから期間が開いてしまったので細かいところまでは覚えきれていないのですが、大まかに言うとこんな感じです。

ヤマ(管理人)
 そーか、ウォルトが神父の言葉に赦しも救いも得られなくてがっかりしたと受け止めておいでたわけですね。それを伺って、そこには、ウォルトの失望に加えて、若き神父の発した「それだけ?」という言葉に対する「それはないんじゃないの?」というtsuyoさんの思いが投影されているような気がしました。

(tsuyoさん)
 まさにその通りです。「ちょっと待てよ」と。あんだけ誘っといてさー。

ヤマ(管理人)
 僕は、彼の「それだけ?」という言葉に対しては、子供たちとの間に溝を作ってしまったことへのウォルトの悔恨の重さを観客に意識づけようとする作り手の思いのほうをむしろ強く感じたので、ウォルトの抱いたがっかりには全く思いが及んでいませんでした。
 tsuyoさんもお書きの「それ(赦し)が果たされるものではないということも、彼にはよく分かっている」という部分が僕には強く働いていたからなんでしょうね、きっと。教えてくださり、どうもありがとうございました。

(tsuyoさん)
 ちなみに今年ももうすぐ半分が終わろうとしていますが、僕の中ではいまのところ『グラントリノ』がぶっちぎりでベストです。ただ、今年は忙しくて、本当に映画館に行けてないのが悩みの種・・・・・・。


◎アリエルさんとの対話(2009年06月12日 00:16)から

ヤマ(管理人)
 先ほど拝読しましたが、なるほど、確かに、です(笑)。
 クリント父がうるさかったから、子供に甘い息子たちになったのだろう。に御尤もと頷きました。僕もアリエルさんと同じように、回想がなく一度も登場しなかったウォルトの亡き妻のことに思いを馳せました。スーのような女性だったんじゃないかなーと思ってます。

(アリエルさん)
 あの孫の葬儀の服は、いくらなんでも(^_^)と。
 親が厳しいと自分の子は同じ育児になるか、全く違う育児になるか、わかれるようです。虐待の連鎖は同じになることがおおいみたいですが。
 妻は、どんな接し方をしていたのか? 妻とのセリフ少しききたかったです。スーみたいだったから、彼女のためにかな・・


◎TAOさんとの対話(2009年06月13日 00:44)から

ヤマ(管理人)
 僕が観た梅田ピカデリーでは、上映開始前にずっとテーマ曲の歌が流れてたんですが、映画を観る前は、なんと陰気で沈鬱な歌なんだろうって思ってたんですよね。ところが、終わってみると、全然違った響きで聞こえてくるんですよ。YouTubeで7分を超えるロングバージョンの歌を繰り返し聴いてます(あは)。
 いやぁ、ホントに深刻なテーマと真っ向から向き合っているにも関わらず、全編を爽やかな風が吹き抜けている映画でしたねー。不覚のうちに僕が涙し始めたのがどこだったのか、もう思い出せなくなってます。とにかくこれはイーストウッドの集大成のような作品なのだが、でも、そのどれよりも深く、軽やかで、慈父の温かさに包まれている作品だったかなんでしょうが、それだけなら、これほどの感銘は覚えなかったような気がします。まさしくそして、これだけ荒廃していても、アメリカにはまだ希望がある。血縁や宗教を超え、新しいアメリカ人に未来を託そうという懐の広さがある。こんなふうに軽やかに贖罪や希望を伝えられるアメリカって やっぱりたいした国だなあと思わせてくれるような大きな大きな器の作品を撮り上げていたからなんだと思います。
 シューテツさんとこにも書き込んだのですが、例の僕の9段階分類で、久しぶりのA上にしようかと、かなり迷ったくらいでした。今回の拙サイトの更新で日誌もアップしたのですが、いろんなことを一杯触発されちゃって、映画では直接描いていないことに想いを馳せていました(たは)。行間の豊かな作品というのは、本当に滋味に富んでますよねぇ。

(TAOさん)
 私が今年2回見た作品はまだ『グラン・トリノ』だけですよ。

ヤマ(管理人)
 2回御覧になったんですか。僕には恐らく機会がないでしょうが、もし高知で上映されることになれば、僕も二度目を観に行きたいと思っています。僕が劇場で2回観た映画って、五十を過ぎるこの歳までに十指に満たないんですが(あは)。そんな作品が地方都市では公開されていない現状に憤慨です!

(TAOさん)
 2度目は夫を引っ張っていきました。というのも、この映画の主人公と義父が少し重なったところがあって、義父と夫は最後まで理解しあうことがなかったのですが、義父が亡くなった後、甥や姪たちからは驚くほど慕われていたことがわかり、私たちとしてはとても意外だったのです。
 自分の息子には「俺の息子なのに・・・」と不本意なことばかりが目につき、一度ボタンをかけちがえてしまうと、素直に愛情を示せないものなのだろうと思います。ヤマさんの日誌にあったようにスーに妻を重ねたところも大きかったと思いますが。
 若い神父を挑発し、少しずつ認めていく態度にも父性を感じましたが、そこにも亡き妻が縁となっていますよね。

 ひとりの男の来し方と決意を描いて、それがアメリカそのものの決意のように見えるところが、まさに「大きな大きな器の作品」だと思います。まだ若手の脚本家とベテランのイーストウッドが見事なタッグを組んでいるところも。

ヤマ(管理人)
 義父さんからすれば、孫になる甥御さんや姪御さんは、ちょうどウォルトにとってのスーやタオの歳でもありますよね。僕も来月には初孫が誕生する予定なんですが、子供と孫は大きに違うもののようです。鍵はやはり「自分の息子には“俺の息子なのに・・・”と不本意なことばかりが目につき」の部分でしょうね。親は、子供には責任を負いますが、孫には負わないって部分も作用する気がします。

(TAOさん)
 あ、「義父さんからすれば、孫になる甥御さんや姪御さんは…」は、紛らわしい書き方をしてしまいましたが、義父にとっての甥、姪で、夫には従姉妹にあたる人たちなのですが、いずれにしても、責任を負わないという部分が作用していることはたしかですね。

ヤマ(管理人)
 拙日誌も読んでくださったようで、ありがとうございます。亡き妻の存在、この作品では、むちゃくちゃ大きかったように感じました。若い神父を挑発し、少しずつ認めていく態度にも父性を感じましたとお書きのところ、僕も同感です。そこで、お伺いしたいのですが、ウォルトの懺悔に対するヤノビッチ神父の「それだけ?」をTAOさんは、どのように御覧になりましたか?

(TAOさん)
 ウォルトが懺悔したのは、妻以外の女性とのキスと、ささやかな脱税と、息子たちとの溝の3つでしたっけ。
 神父は当然、ウォルトが朝鮮戦争で人を殺したこと、それも命令されて仕方なく、ではなく自ら率先して、と本人が言っていた罪に対する懺悔を期待して「それだけ?」と促したのですよね。私もまさに「それだけ?」と思いました。
 でも、ウォルトにとって、朝鮮戦争での体験は、懺悔したからといって神に赦されるものではなく、自らの命でしか贖えない罪だったのでしょう。ウォルトの最後の姿をあえて十字架に見立てた撮り方をしているのも贖罪を思わせました。
 そもそも彼は懺悔に行く必要などなかったのに、ああしてささいな罪だけを懺悔しにわざわざ脚を運んだのは、妻との約束を果たすということ以外に、神父に対して、懺悔して赦してもらおうとは思っていないことを明確に伝えたかったのでしょう。


◎スーダラさんとの対話(2009年06月13日 01:47)から

ヤマ(管理人)
 スーダラさん、こんにちは。
 高知では公開すらされないこの作品を先日大阪で観てきて、いたく感銘を受けました。先の拙サイトの更新で日誌もアップしたので、常になく精力的にあちこちの感想や日記を追っているのですが、僕にとってはそれだけの作品だったということでしょう。
 そして、ここで出会ったスーダラさんの日記、素晴らしいですね。
 映画作品そのものが豊かなので、どなたの書いているものを読んでも面白く興味深いのですが、スーダラさんのは格別でした。大きなところでの捉えどころの二点が自分とドンピシャだったからでしょうね。
 僕もまさしくスーダラさんがお書きの一人の女に惚れ抜き、重い責任を敢えて言葉にせず、自分自身で全て引き受けた男のかっこよさ作り手のアメリカという国への思いに痺れたのでした。

(スーダラさん)
 ヤマさん、どうも。
 ヤマさんの感想も拝見しました。「息子を含めた家族との関係=唯一懺悔が必要であったこと」「アメリカのこと」という二つがオーバーラップしている所はまさに僕も共感しました。

ヤマ(管理人)
 拙日誌も読んでくださり、とても嬉しいです。出征体験は、彼にとっておぞましいものであったのは間違いないけれど、ウォルトは、おぞましかったからといって恥じてるわけではありませんよね。懺悔の対象として、恥じて悔恨しているのならば、タオに勲章をあげたりはしないはずですものね。
 彼が強い自責の念を抱いているのは、スーダラさんもお書きの「息子を含めた家族との関係」だと僕も思います。

(スーダラさん)
 そうですよね。出征体験と家族のことの関係はヤマさんが整理されている通りです。そしてそれはそのままアメリカという国が「責任を回避せず受け容れるもの」と「悩みながら誤りながら、決して忘れることが出来ない至上のもの」とそれぞれ位置づけたものになります。
 実は、この構図で思い浮かべた映画が1本ありまして、それは『12人の怒れる男たち』なんです。あの映画の全編で貫かれているのは、まさにアメリカの価値観そのものである「合理主義」と「民主主義」です。でも映画の最後の最後に、最後まで「有罪」を主張した陪審員を他の者が許し、受容することになったのは、皆が彼の中に「家族、息子への情愛」を見たからでした。
 この二つの責任をしっかり果してこそ、アメリカとアメリカ人は世界から尊敬される存在になるのだと思います。


◎大倉さんとの対話(2009年06月17日 00:59)から

ヤマ(管理人)
 大倉さん、こんにちは。
 これだけの作品が高知では公開されないんですよ(憤慨)。なんてことでしょう(慨嘆)。僕は、からくも大阪で観る機会を得られて幸いでした。
 それはともかく、大倉さんの日記を拝読し、“芯の強さ”というキーワードを発見しての書き込みです。見かけや威勢で飾った強さではなく、“芯の強さ”こそが真の強さであることを訴えている作品でもありましたね。

(大倉さん)
 ヤマさま、お今晩は。『グラン・トリノ』を公開していないのは問題ですが、『はりまや橋』の舞台になって良かったでは無いですか……。
 さて、この映画はコワルスキー一家とスパイダー一味を除いて、皆様少しづつ成長されていく話なんですよね。イーストウッド御大の「俳優」としての「遺作」を御覧頂けて何よりでございます。


◎ケイケイさんとの対話(2009年06月27日 23:18)から

ヤマ(管理人)
 ケイケイさん、こんにちは。
 もう先刻ご承知のこととは思いますが(笑)、先の拙サイトの更新で、こちらの『グラン・トリノ』をいつもの直リンクに拝借しております。ありがとうございました。

(ケイケイさん)
 ヤマさん、こんにちは。いつもありがとうございます。
 今年は『グラン・トリノ』で決まりだと思っていたベスト1ですが、『愛を読むひと』を観て、気持ちがぐらいついています(笑)。

ヤマ(管理人)
 お気持ちは分かります(笑)。

(ケイケイさん)
 『ディア・ドクター』という強敵も出てきました(笑)。『レスラー』も捨て難いし。

ヤマ(管理人)
 拙日誌は、明日アップする愛を読むひとのほうが数段長くなりましたが、自身が涙した分、僕は『グラン・トリノ』に軍配を上げます。でも、甲乙付けがたい素晴しい作品でしたね、どちらも。

(ケイケイさん)
 おぉ、それは意外。何となくヤマさんが選ぶなら、『愛を読むひと』のような気がしていました。

ヤマ(管理人)
 で、ケイケイさんの映画日記ですが、いつもいつも鬱積した思いを抱える夫を、亡き妻は本当に心配していたのでしょう、それが神父への頼みごとだったと思いました。神によって夫を救ってほしかったのでしょう。とお書きの部分、絶対にケイケイさんが言及しているはずと踏んでました(笑)。それから言えば、拝読してみて、あら?これだけってくらいあっさり流しましたね(笑)。

(ケイケイさん)
 読まれてましたか(笑)。
 この作品、亡くなった妻が夫を支えていたことは深くわかったんですが、内容的にはそのことが深くかかわっているとは、感じませんでした。なのでヤマさんの感想を拝読して、なるほどと(笑)。

ヤマ(管理人)
 スーに亡妻のキャラを見出していたように妄想しませんでした?(笑)
 一言もそんな台詞はありませんでしたが、僕にはなぜか確信でした。

(ケイケイさん)
 いえ、全く(笑)。奥さんはあんなにハキハキ自分の意見を、夫に言う人だったとは思いませんから。
 もっと従順で、夫を懐に抱くような人だったと思います。だから自分が生きている間は、どんなに頼んでも絶対に懺悔などしないだろうから、遺言のような形で神父に残したと聞けば、夫は懺悔すると思ったんだと感じました。

ヤマ(管理人)
 今回、ケイケイさんと同じく直リンクに拝借したスーダラさんも似たような観点から御覧になっているのを知り、やっぱ男系妄想かな?っとも(笑)。

(ケイケイさん)
 かも知れません(笑)。

ヤマ(管理人)
 拙日誌は、亡くなった妻と夫のところに、けっこう言葉を多く費やしましたが、ケイケイさんは、きっとそれよりもなお多く深く語っているだろうと読んでましたのに。でも、絶対に外しては来ないだろうとの予想は当たってました。
 イーストウッドの数々の雄姿が記憶にいっぱいの私たちには、物語の構成上抱く感情以上に、万感迫るものがありました。については、もう全くその通りです。拙日誌に「不覚のうちにも涙して観た」と綴った感銘の核心は、僕においても、まさにここのところだったのだろうと思っています。物語に感動する以上に、作り手に対して感動して涙したのは、もしかすると、僕のもはや短からぬ映画人生のなかでも、初めてのことかもしれません。

(ケイケイさん)
 彼ほど長く、映画ファンに親しまれた人はいませんよね。ハリウッド史上、もっともリスペクトされた人だと、後世に必ず名を残す人だと思います。

ヤマ(管理人)
 硫黄島2部作と本作でそうなりましたね〜。

(ケイケイさん)
 『ダーティー・ハリー』の頃は、そんなこと全然思ってなかったのにね(笑)。

ヤマ(管理人)
 まったくだ!(笑)
 彼の場合、稀有なことですが、政治家経験が肥やしになっている気がして、それが本当にすごいことだなーって思います。

(ケイケイさん)
 そうですね、あれが彼のターニングポイントになったんですね。うんうん。言われてみれば、そうですね。シュワちゃんも続くかしら?(笑)。

ヤマ(管理人)
 ケイケイさんがおっしゃる“血や人種に惑わされない、そして宗教にも支配されない世界”、僕も切望しています。でもって、愛国称揚なんて御免蒙りたいと思っています。(愛郷心はOKよん)

(ケイケイさん)
 そうですよねー。愛国心も大事ですけど、履き違えているのはご勘弁です。自分の国を愛する人は、他国の人が国を愛する気持ちも尊重出来るはずですから。

ヤマ(管理人)
 国というとついつい国家・国家権力を連想しちゃっていけません。その二つについては、僕は日本であるなしを問わずに好まないのですが、その二つを除いた部分での「国」は、僕も好きですし、他者の愛国心を否定する気はありません。たとえそれがアメリカでさえも(笑)。

(ケイケイさん)
 いや〜、いいアメリカ映画観るとね、私はやっぱりアメリカ好きだわ〜〜〜!と改めて思いますよ。マイケルが亡くなったほうが、美空ひばりが亡くなったより100倍哀しいし(笑)。


◎olddog さんとの対話(2009年12月20日 20:52)から

(olddogさん)
 お邪魔します。
 別の場所で現在公開中の映画カールじいさんの空飛ぶ家』を題材にヤマさんと話させていただいた過程で、同じく偏屈な老人を主人公とするもう一本の映画、クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』の話題に話が波及しましたので、こちらをお借りしてお話を続けさせていただきたく思います。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、olddogさん。お待ち申し上げておりました。

(olddogさん)
 『カールじいさんの空飛ぶ家』の話の過程では、『グラン・トリノ』の終盤、物語の中での最後の一日における、主人公ウォルト・コワルスキーの行動とその解釈について、特に、彼が教会に赴き懺悔を行う事の解釈について、ヤマさんと私とで捉え方に差異がある事が判ってきましたので、その差異を炙り出す事で、作品鑑賞の"間口"を広げる一助とでもなればと思っております。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。楽しみです。

(olddogさん)
 ヤマさんの書かれた映画評は公開当時拝見していました。

ヤマ(管理人)
 そうでしたか。それはどうも恐れ入ります。
 僕は、アクセス解析というものを付けていないので、そのへんのことは全く分からないのですが、ありがたいことです。olddogさんのブログのほうには、『グラン・トリノ』のレビューが見当たらないのですが、どこか他にお書きなんですか?

(olddogさん)
 ぴあが主催している「映画生活」というSNSがあって、最近はそこに小口の感想を書きなぐるのが主になってしまいました。

ヤマ(管理人)
 そうでしたか。まとまったものを書くには、書く時間そのもの以上に、反芻に時間を要しますから、習慣から外れると、そうなるかもしれませんね。

(olddogさん)
 この映画では、ウォルトと長年連れ添い、映画が始まる直前に死亡している彼の妻が、劇中の重要な「物言わぬ登場人物」となっています。

ヤマ(管理人)
 はい。そのとおりです。

(olddogさん)
 彼女の存在は、劇中様々な場面でウォルトの行動規範となり、また翻意を促す契機ともなっていました。ヤマさんの評の秀逸な部分は、彼女とウォルトの隣家に超して来た少数民族の娘スーとの共通項を見出し、その共通性が劇中のウォルトの変化に大きな影響を与えている、と看破した点にあるでしょう。

ヤマ(管理人)
 恐れ入ります。彼の亡き妻は、おそらくスーのように気丈で聡明で、受容力に富んだ笑顔の素敵な女性で、ウォルトは、スーのなかに亡き妻の気質を見出したからこそ、姉弟との付き合いを深めていったのではなかろうか。と書いた部分ですね。

(olddogさん)
 そうした視点を踏まえる事でウォルトの妻は、単にウォルトの"人間味"の部分を保証する担保としてのみではなく、ウォルトと「ウォルトの外の社会」とを繋ぐ橋頭堡としての位置付けが明らかになってきます。

ヤマ(管理人)
 頑なだったはずのウォルトが何故、彼ら姉弟には心開いて行ったのかを自分なりに思いを巡らせるなかで解釈したものでしたが、拙日誌にかほどに彼にとって、亡き妻の存在は重きをなしていたと綴った内面的意味合いを補って外との関係で言えば、まさしく彼女がウォルトと「ウォルトの外の社会」とを繋ぐ橋頭堡でしたね。

(olddogさん)
 そうした視点を踏まえると、確かにヤマさんが指摘した如く、懺悔の最後に神父に促されて付け足した自身の関係性の欠如を嘆くウォルトの姿は、劇中重要なポイントとして配置されている、と見て良いでしょう。

ヤマ(管理人)
 ご了解いただけて嬉しく思います。
 得てしてこの部分は、若き神父への懺悔に本音は発しなかった場面だとご覧になる方々が多そうなものですから、そうでもないのではないかとの提起をしてみたかった箇所なので、そのように汲んでいただけると、とても嬉しく感じます(礼)。

(olddogさん)
 一方で私は鑑賞時、教会においてなされたウォルトの懺悔を、単なる儀礼的なもの、人生の節目において為すべき事の一環として為されたものに過ぎず、その日ウォルトが行った他の儀礼的な行為 - 床屋での散髪やスーツの新調と同義に捉えています。

ヤマ(管理人)
 そのようにご覧になる方のほうが、きっと多いのではないかとの見方を僕自身もしているようなところがあります。

(olddogさん)
 それは、その後ウォルトがタオと最後の会話をする場面において、明らかに告解室での懺悔を意識した演出が行われていた事から逆算して導きだしたものでした。

ヤマ(管理人)
 明らかに対照していましたから、そのようにご覧になるほうがむしろ自然なのかもしれません。

(olddogさん)
 タオとの会話において行われた心中吐露がウォルトの"懺悔"と仮定すると、また、懺悔なるものが一般的な「"罪"の告白」を指しているとすると、ウォルトが教会に赴いたのはあくまで節目として、身仕舞いの一環として妻との約束を果たす為と考えても差し支えなくなってしまう訳です。

ヤマ(管理人)
 別に差し障りはありませんものね。それは僕もそう思います。それこそ“逆算”と言い方をするならば、僕のそれも、まさしく彼の示した決意の行動の結果から逆算して、自身の子供たちとの間に溝を作ってしまったことへの悔恨は、彼のなかでは本当に重い意味を持ったものだったような気がしたものだったように思います。

(olddogさん)
 教会でウォルトが語ったのは(息子達に代表される)関係性を絶って自らの内に引きこもった事の罪。自宅でタオに語ったのはより直接的な、朝鮮戦争出兵時に一方的な虐殺となった作戦行動に参加した事、すなわち殺人の罪についてでした。

ヤマ(管理人)
 どちらも等しく“罪”なんですよねー。

(olddogさん)
 亡き妻から隣家の少女スーを通じて社会全体へと至る「ウォルトの関係性に対する心境の変化」を主軸に据えると前者へ、劇中ウォルトの幾つかの行動で示される、非道に対する暴力的な制裁とその行き着く先への暗示を主軸に据えると後者へ、二種類の懺悔の比重はそれぞれ傾く事になります。

ヤマ(管理人)
 そうですね。直接的には後者なのだろうとは思いますよ。

(olddogさん)
 当然ながら『グラン・トリノ』はひとつのテーマを語る事のみに終始する様な安直な物語では無い訳で、孤独な老人が社会との関わりを取り戻す仮定が描かれなければその老人が社会の為にその身を犠牲にしようと決意する事もありません。

ヤマ(管理人)
 ですよねー。

(olddogさん)
 どちらも十全に描き込まれる必要があり、また事実十全に描き込まれてもいます。

ヤマ(管理人)
 同感です。

(olddogさん)
 ヤマさんが映画評で書かれているいずれが欠けてもウォルトに"その決意"は訪れなかったというのはまさしくその通りです。

ヤマ(管理人)
 ご賛同がいただけて、幸いです。

(olddogさん)
 だから結局は、ウォルトの心境が変化した象徴として描かれた"最後の一日"の行動のうち、個々の観客がそれぞれどの部分を重要視し抜き出してみせるか、の差が、私とヤマさんの解釈の差と言う事になるのでしょう。

ヤマ(管理人)
 そのようですね。映画に対する見解の相違は、概ねこういうものでなければいけないと感じています。
 それはそうと、お教えいただいたURLの辿った先に、『グラン・トリノ』のレビューが見当たらなかったように思うのですが、どこに置いてありますか?

(olddogさん)
 最近は余りまとまった感想を書く意欲がわかず、今回の様にヤマさんの映画評にぶら下がって楽をさせて貰ったりしています。
 『グラン・トリノ』についても「映画生活」の『グラン・トリノ』のアーティクル群の中の当方の感想文に書いていますが、読み直してみると実に中身が無い。今年観た映画の筆頭に挙げたくなる位に好きな作品なのですが、どうやら鑑賞当時は見事に「通り過ぎてしまった」映画にしてしまった様です。

ヤマ(管理人)
 拝見しました。そういうこともありますよね。僕にとってのそれとしてすぐ思い浮かぶのは『ふたりのベロニカ』です。なぜか日誌を綴ってません(苦笑)。たぶん時間が取れなかったからなんでしょうが、我ながら残念に思っています(たは)。

(olddogさん)
 『ふたりのベロニカ』は私はキェシロフスキ監督作品の中では最も好きな映画です。

ヤマ(管理人)
 おおー、そうでしたか!(喜)

(olddogさん)
 首都圏では今年リバイバル上映されましたので、もしかしたらそちらでも上映されるかもしれません。

ヤマ(管理人)
 なかなかそうは問屋が卸さないのですが(苦笑)、いつか再見する機会が得られるのではないかとは思っています。

(olddogさん)
 もし再見の機会がある様でしたら、それを契機にヤマさんなりの『ふたりのベロニカ』を拝見出来れば幸いです。

ヤマ(管理人)
 嬉しいご期待を寄せていただき、身に余ります。今度、観る機会に恵まれたら、必ずや拙日誌を綴っておく所存です。

 さて、御紹介いただいた『グラン・トリノ』の感想文を読んで、olddogさんが自動車工一筋でフォード社を勤め上げた東欧系アメリカ人ウォルト・コワルスキーをアウトローとしてご覧になっていたことに少々意表を突かれました。

(olddogさん)
 我ながらつまらない感想文ですが、御覧いただいて有難く思います。
 ウォルトを「アウトロー」と定義した事とその事を奇異に思う事そのものが、前回の「懺悔」を巡る意識の違いにそのまま繋がっていく様にも思います。

ヤマ(管理人)
 ほぅ。

(olddogさん)
 私はウォルトの孤独が、朝鮮戦争での体験を忘れ去って佳しとしなかったウォルトの矜持の様なものに起因するものと捉え、そこに集団の中にあってあくまで"孤"を維持しようとする者としてのアウトローの姿になぞらえてみたのでした。

ヤマ(管理人)
 なるほどね。
 積極的に「あくまで“弧”を維持しようと」したのか、それとも参戦体験を風化させないことで結果的に“弧”を引き受けざるを得なかったかは微妙ですが、僕は後者に立ち、なおかつ拙日誌に朝鮮戦争での出兵時に心の深いところで傷を負いながらもマッチョに縛られて弱みなど見せることができずに生きて来た男で、おそらく唯一亡き妻のみが、彼が肩肘張って気張ることを要しない形に包み込んでいた存在だったような気が、僕はしたのだった。と綴ったように、亡き妻や悪態をつき合うダチの存在を求めていて、決して自ら“弧”を求めているようには思っていませんでした。でも、朝鮮戦争での体験を忘れ去って佳しとしなかったウォルトの矜持というのには、共感があります。そして、その記憶の持ち方はリンチのストレイト・ストーリーのアルヴィンじいさんに近いものがあるような感じで受止めていました。
 だから、アウトローとは繋がらなかったのですが、おっしゃるように長年、映画を観続けてきた者においては、イーストウッド自身が演じることにそのようなものを感じないではいられないところがあるというのも、十分理解できます。当否正誤の問題ではありませんよね。ましてや、olddogさんは、ある意味、クリント・イーストウッドという人物に当て嵌められたステレオタイプを通して映画を観ていたという事でもあり、『グラン・トリノ』という一本の作品そのものを論じる時にどこまで有効かは定かではありませんがとの自覚を備えたうえで、御自身のお感じになったものを述べているのですから、尚更のことのように思います。

(olddogさん)
 同じSNSで、イーストウッドの今年もう一本の公開作品『チェンジリング』に関して私が書いた感想を引用しておきます。多分私はこの時の感覚を携えたまま、『グラン・トリノ』に臨んでいた様に思いますので。
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クリント・イーストウッドは、その根幹はやはり西部劇の人だ。身を寄せる物とて無い荒野に身ひとつで立ち向かい、だからこそ自分自身に厳しい戒律を課すアウトローの姿を、身を寄せ合い守り合う事を覚えたが故にどこまでも脆弱になっていく民衆の姿を、どのようなジャンルの映画にも必ず根底に忍ばせる。
イーストウッドは「ヒロイック」と呼ばれるに足る条件が何かを充分に知悉し、ヒロイックな行為の集積がいつか「今よりはましな世界」の到来に結実すると、本気で信じているのだろう。

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 それはある意味、クリント・イーストウッドという人物に当て嵌められたステレオタイプを通して映画を観ていたという事でもあり、『グラン・トリノ』という一本の作品そのものを論じる時にどこまで有効かは定かではありませんが、実直な労働者であり、そのまま年を重ねれば善きファミリーマンとなっていた筈のウォルトが、何故極端に頑固で意固地な男になってしまったのかという問いに、答のひとつを与えてくれた様にも思います。

ヤマ(管理人)
 十分に、答のひとつではあろうと僕も思います。

(olddogさん)
 一方で、"身を寄せ合う事"は人を脆弱にするばかりでなく、ある種の強さを与えもします。

ヤマ(管理人)
 そうですね。というか、全くの“弧”では、人は生きられないように思います。

(olddogさん)
 『グラン・トリノ』におけるウオルト・コワルスキーは、そうした強さに最初気付かず、妻の死を契機としてそれに気付いていく男でもありました。ヤマさんがこの映画を語る時に主軸に置いている部分ですね。

ヤマ(管理人)
 そうです。正確には、その強さに気付いてないのではなく、そうした関係を“物ではない人”とは、多く築けなかった悔悟に対して、やむを得なかっただけではない部分があったことに気付いたってことでしょうか。

(olddogさん)
 つまり多分私はこの映画を、アウトローとして世間に背を向けて、たぶん少し見下して生きて来た男が、世間に迎合するのではなく協調していく事の素晴らしさに気付き、しかし自身はアウトローとしての本分を全うして為すべき事を為す物語と見ているのでしょう。だからウォルトの最後の一日をあくまで孤高の男の最後の一日として取り扱い、そうした視点に合致しない描写を軽視しがちなんでしょうね。

ヤマ(管理人)
 なるほど。冷静な振り返りですね。納得です。
 まぁ、映画に対し、己の観たいものを観て採るというのは、鑑賞者の特権ですし、醍醐味ですものねー。

(olddogさん)
 それは私にとってはごく自然な受け取り方だったのですが、逆にヤマさんがそこに奇異の視線を向けてくれた事によって、自分がどこから『グラン・トリノ』に光を当てているかが少し明らかになりました。書きなぐりにも思わぬ効用があるものですね。

ヤマ(管理人)
 感じ考えたことを書き止め公表することの果報は、まさしくこういうところにありますよね。談義、対話の最大の効用ですので、僕も最大限享受したいと思っています。
by ヤマ(編集採録)



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―