『真昼の決闘』(High Noon)['52]
監督 フレッド・ジンネマン


 僕の生まれる六年前に出来たこの作品を観たのは、十代の時分だったように思うから、何十年ぶりかの再見だ。Citizen Cane ならぬ Marshal Cane だったのだと今さら気付くのは、当時はまだ僕が市民ケーン['41]を観ていなかったからだろう。どちらも孤立する男なのだが、こちらのケイン(ゲイリー・クーパー)には、彼を置いて町を発とうとしながらも、最後には加勢してくれた美しき新妻エミー(グレイス・ケリー)がいた。

 かつて観たときは、ケイン保安官を孤立させる腰抜け市民たちへの苛立ちを誘われたような記憶があるのだが、五十歳も過ぎた年になって観ると、町長の言い分が単なる事なかれ主義とも言えずにもっともだという気のしてくる面もあって、勇敢な“正義漢の孤軍奮闘”というよりも、敵に背を向けて逃げてしまう自分の姿を容認できないプライドに囚われた“マッチョの私闘”のような気がした。そういう意味では、確かな人間観察に奥行きのある作品だったような気がする。だから、あまり西部劇らしくないのだろう。

 極悪人とされていたフランク一味について、言われるほどの悪辣さを直接には描かずに、人々の言葉で語らせるだけにしていたことが、観ている側に対して、単純にケインに同調させるには留まらない部分を生み出していたような気がする。手の付けられない悪党一味だとされていたのだが、画面に描かれた悪事としては、せいぜいで窓ガラスを割って女性用の帽子をくすねるくらいのことでしかなかった。満を持して現れたフランクは、到着を待っていた一味とも違ってこざっぱりした身なりだったし、ホテルの主人などは、表立って言えないこととして留保を掛けつつも、むしろケインのほうを嫌っていてフランクを擁護したい真情をエミーに伝えたりしていたくらいだ。

 作り手の狙いとしては、フランク一味の積極的な悪を描出してしまうことで、保安官を孤立させる市民の消極的悪やケイン保安官の抱えている負の側面を浮き彫りにする表現意図の邪魔立てをしたくはなかったというところなのだろう。全く以って西部劇らしくない不埒な作家的野心だと思うが、幾度も映し出される時計によって明示された、経過時間どおりのリアルな時間経過に編集してあることはよく指摘されることながら、それ以上に、悪党よりも市民や保安官の抱えている悪のほうを描出したことが奏功して、名作としての名を今に残しているような気がする。

 オープニングで現れたリー・バン・クリーフがやけに印象深く、きっと見せ場が再登場するのだろうと思っていたが、駅のホームで“ハイ・ヌーン”をハーモニカで吹いていたほかには大して目立った場面が出てこなかったのが少々不満だった。一番かっこよかったのは、悪党フランクからケイン保安官、そして青二才ハーヴェイ(ロイド・ブリッジス)へと男渡りをしていたらしいメキシコ女性のヘレン(ケティ・フラド)だったような気がする。自身の選択と決断に対して潔くブレがないうえに、他者に対して責任転嫁をしないところは、ケインとも重なるのだが、ケインには新妻や町長ほかの町の人々の本音を黙殺して自分の“正義”を押し付ける我の強さというものが“異論を挟む口を封じる独善性”を帯びている面があったように思う。だが、ヘレンには異論や非難の口封じをするような“正当性の偽装”など全く眼中になく、むしろ顰蹙を買いかねない男渡りの自由を体現しつつ、ケインとも重なる自我の強さを発揮していたから、ケイン以上にかっこよかったのだろう。




推薦テクスト1推薦テクスト2:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
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by ヤマ

'09. 4.22. 美術館ホール



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