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『ザ・セル』(The Cell) | |||||
監督 ターセム | |||||
少し好奇心の強い人であれば、他人の頭のなかを覗いてみたいという気になったことのない人は、おそらくいないだろう。まして、とびきり異常な殺人事件を続けている男の頭のなかとなれば、なおのことだ。 この作品は、そういう凡人の黒い欲望をくすぐりながら、実に洗練された形で悪趣味なイメージを全開にしていて、そういったものへの興味というか好奇心の強い僕などは、ゾクゾクしながら大いに、かつ密やかに楽しんだ。いい加減、刺激過剰の時代で、多少はそういった異常世界への関心を持って過ごしてきた自分から観ても、相当な悪趣味だと思うようなイメージが、予想を上回る力で展開されていていささか驚いた。また、同時にそういうものを全開にしたうえで、思う存分に繰り広げるための担保として、作り手が周到に用意しているものに感心もした。 それが即ち心象世界の洗練された映像であり、最終的には自閉症の少年エドワードの救いを予感させる対処法の獲得をジュリア(ジェニファー・ロペス)が果たすことになるという物語の顛末であり、おそるべき性倒錯に到った犯人カール・スターガー(ヴィンセント・ドノフリオ)が元々心優しい少年であったのに、児童虐待によって人格障害を起こした被害者でもあるという人間観を前提にした人物造形だと思う。それらのおかげで、本来どうしようもなく陰惨で救いのないはずの世界が、何かしら納まりのいいところに落ち着くものだから、顰蹙を免れるのだろう。したたかなものだ。 さらに周到なことに、幼時の虐待体験が総ての免罪符になるものではないのだとも取れる立場からの言明も、FBI捜査官ピーター・ノバック(ヴィンス・ヴォーン) の口を借りてきちんと入れてあるうえに、ピーター自身がそういう体験を経ているのではないかと思わせるような陰影を刻み込むことを忘れていない。加えて、こういうカルト的映画のある種のステイタスとも言えるような作家であるルネ・ラルー(『ファンタスティック・プラネット』) やデヴィッド・リンチ(『ツイン・ピークス』)、ギャスパー・ノエ(『カルネ』) などの引用も施してある。 しかし、そういうデコレーションを施しながらも、作り手が一番やりたかったのは、結局は悪趣味イメージの造形だったように思えるほど、そこには力があった。なかでも、究極のネクロフィリア(屍体性愛)とピグマリオニア(人形愛)を合一したようなフェティシズムのもとに、ボディピアスのまだ先を行くイン・プラントを施した背中の金属片から露出した数々のフックにチェーンを掛けて自分の身体を宙吊りにして、血を滲ませながら、肉体を合わせることなく射精に至るシーンには、とんでもなく濃厚なものを感じた。だが、最もおぞましかったのは、わずかな食料とベンチシートに便器も備わった強化ガラスケースに閉じ込めて、無人の状態で放置して、自動制御で間隔を置きながら水を注入し、40時間も掛けて最後には溺死させる姿をビデオで記録し、モニターするという窃視症とサディズムの陰湿さだった。無人の状態と不意に頭上から噴出してくる大量の水が監禁された若い女性の恐怖を倍加させ、神経を責め苛む様子が何とも生々しくて、さすがに不快感を催した。 これほどまでのことをやっておいて、ジュリアやピーターの勇気と挑戦の物語だなどと嘯くのは、厚かましいと言うほかないから、よもやターセム監督自身は、そんなことを敢えて言ってはないだろうと思うが、確信できるほどのものではない。 推薦テクスト:「eiga-fan Y's HOMEPAGE」より http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2001sacinemaindex.html#anchor000595 | |||||
by ヤマ '01. 4.24. 松竹ピカデリー1 | |||||
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