『ふるさとをください』
監督 冨永憲治


 丘を越えてに出てきた菊池寛の“生活第一、芸術第二”を確信的に行っている作品だと思う。だから、最後の結婚式の場面を安手に過ぎると責めるのはお門違いだとは思うのだけれども、舞台劇ならライヴの場の盛り上がりの力で持っていかれるから、むしろ効果的にもなる運びのエンディングだと思うものの、映画ではそうはいかないから、少々疑問が残った。ジェームス三木は、芝居の台本もよく書いているようだから、その癖が出たのかもしれない。
 とはいえ、少年法改正キャンペーンが張られていた頃、併せて被害者の人権問題をクローズアップするすることで厳罰主義と国権強化への世論誘導を図ると共に、精神障害者を危険視し社会不安を煽るようなメディアの動きを感じて、とても嫌な気がしていたことがあったから、こういう映画が作られ、異議申し立てをするのは、とても必要で大事なことだと思った。それまで、それが事実ではあっても、事件を起こした者の過去の病歴は、敢えて報道で流したりはしていなかったような気がするのに、やけに声高に報じられるようになって耳慣れない違和感を覚えると共に、何やら意図的なものを感じたような記憶が僕にはある。この映画の製作委員会の主体を担っているのは、障害者の共同作業所の全国連絡会とも言うべき「きょうされん」なのだが、30周年記念映画として、いわゆる三障害(身体・知的・精神)のなかでも特に精神障害者の共同作業所の開設に係る啓発ドラマを取り上げたのは、まさしくそういった危機感が働いていたからではなかろうか。
 和歌山県に実際にある共同作業所「麦の郷」を三十年前に開設しようとした際に、現実に起こったトラブルを元に映画化したようだが、三十年前には人口に膾炙していなかった「スイーツ作りの名人」といった言葉を配していたことからも、忘れてはいけない過去の物語としては作っていないところがミソだと思う。過去数十年来の人権教育・人権運動のなかで、それなりに障害者理解も進み、今や障害者スポーツの大会がTVで報じられることも多くなっているし、ボランティア活動の参入も広がっているようには思う。だが、その主役を担っているのは、やはり身体障害の領域だという気がしてならない。
 だから、開放型の入所施設としての共同作業所の開設と言っても、身体・知的のほうでの今回の映画企画というのは、起こらなかったような気がする。映画のなかでも、精神障害者の実際に触れようともしないままに、虞犯者として危険視する偏見と差別に焦点が当たっていたように思われるが、三障害のなかでも特に精神障害が今そのような風当たりに強く晒されやすくなっているとの懸念を抱かせることにおいて、メディアの報道姿勢に大きな責があることは否めない。さすがに最近は、その部分については、かなり控えめになっているような気がするが、報道番組とは名ばかりの井戸端会議よりも低次元な三面記事ワイドショーのような報道バラエティなる珍妙な番組類型における不見識極まりないコメンテーターの暴言の垂れ流しによって視聴率を稼ごうとするTVの卑しさは、基本的に大きくは変っておらず、マスメディアがまともに取り上げることは決してない“メディア被害ないし悪影響の問題”こそが、現在最も報じられるべきものだという気がしてならないのだが、この作品でも、そういったところには殆ど踏み込んでおらず、相変わらずの一般住民の無知・無理解と政治家や利権関係者の不見識のみを前提とした啓発ドラマに留まっている点が、限界として歴然としていたように思う。
 そうは言っても、自身が統合失調症の一歩手前まで迫る経験にも晒され、新米県職員である愛娘の千草(大路恵美)の仲立ちで少しづつ接点を持つに至るなかで、地域住民による反対運動の代表者を務めていた雄二郎(ベンガル)が知見を得て視点を変えつつあったことが、近県で起こった精神病院への入院歴のある者が起こした事件報道の元に開かれた緊急集会の席での登壇者の暴言に近いアジテーションによって堰を切られた形で露になる演説場面になかなか力があったように思う。人が少なからぬ年月を生きてくることで何を得ているかが最も端的な形で問われるのは、やはり言葉なんだとの思いを新たにした。大久保医師(中山仁)の言葉はさほどでもなかったが、共同作業所長(藤田弓子)はなかなかのものだった。だが、やはり雄二郎の演説の言葉が群を抜いていたように思う。ベンガルがいい味を出していた。
by ヤマ

'08.10.18. 自由民権記念館民権ホール



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