『魔性の夏 四谷怪談より』('81)
監督 蜷川幸雄


 この五月に映画の上映会を始めた弁天座が、夏なら怪談だろうということで選んだ作品だ。四谷怪談の映画であれば他に名高い作品があるのも承知で本作にしたのは、物語自体は馴染みの話なので、作品評価よりもキャスティングに惹かれたからだと主催者から聞いていたが、「四谷怪談より」としながらも、怪談的な恐さを表現する気など全く窺われない映画で、“囚われに陥りやすい男の愚かさがもたらす破滅”を描いた作品だったように思う。そもそも、毒を盛られ殺された岩(関根恵子)が伊右衛門(萩原健一)を少しも恨んでいない。そこが新味だった。

 岩の殺され方は、どこか弾みのような刺され方で、伊右衛門は、悪人というよりも未熟な子供としてのキャラクター設定だったように思う。岩から、直にそのように評されていたし、時代劇なのに、妻からの呼称も「伊右衛門」という呼びきりであって「伊右衛門様」ではなかった。うめとの婚儀にしても、自分の出世欲からというよりも、伊右衛門を見初めて添い遂げたいと願った役付き大家のわがまま娘の言いなりになった伊藤喜兵衛(内藤武敏)の“愚父の囚われ”に抗えなかった部分が強いように感じられたのだが、萩原健一のキャスティングというのは、その“未熟な子供”というキャラクター設定あたりからくるものだったような気がする。なにせ、岩も新妻うめ(森下愛子)も殺しておきながら、行き場がなくなると岩の妹そで(夏目雅子)を頼って長屋を訪ねるばかりか、女に男を受け入れさせる手立ては抱くこと以外にないと思い込んでいるかの如くいきなり犯してしまうような男なのだ。そして最後には、浜でそでの夫である与茂七(勝野洋)との相討ちに倒れたわけだが、まるで“本来の姿としての胎児”に返るような動きを見せていた。

 その後に続くラストシーンで、焼け落ちた屋敷跡で岩が赤ん坊を抱いていた作品なのだから、岩が恨んでいないどころか、最後には伊右衛門を取り戻した喜びを示しているように僕の目には映った。浅はかで身勝手な夫を子供だと詰りながらも、うめを伴ってではありながら芝居小屋に連れて行ってもらったときの嬉しそうな顔や一度も恨み言や呪いを口にしなかった姿からすれば、見当違いの結末とは言えないようにも思う。夫を子供視するのは、妻にありがちな傾向の一つとされていることを踏まえて作り手が造形した岩像なのだろうが、僕のあまり好むところではなく、赦しを与えるにはあまりにも御粗末でひどい伊右衛門だったという気がする。

 しかし、思えば、浅野家中の赤穂浪士として仇討ちに囚われ、それにかこつけた何とも情けない身過ぎ世過ぎを送っていた義父の四谷左内(鈴木瑞穂)の窮地を救い諫めていたときの伊右衛門は、むしろ真っ当な人物のように見えていたから、彼がおかしくなったのは手に負えない暴言に思い余って義父を殺めてしまったときからのように思えなくもない。とんでもないことをしでかしてしまったことに囚われた挙げ句の乱心のようでもあるわけだ。起きてしまったことやしでかしたことへの囚われに対しては、概して男のほうが女よりも不器用で潔くないとしたものだが、そう考えると、直助(石橋蓮司)のそでへの執着というか囚われも含めて、登場する主だった男たち全てに共通して“囚われに陥りやすい男の愚かさがもたらす破滅”が描かれていた作品だったような気がしてくる。与茂七もまた、負った敵討ちに囚われ、家を空けての長旅に出ている間に町人の直助に乗っ取られ、戻る場所を失っているような男だった。夫の死を伝えられた後のそでが直助と暮らすなかで、ちっとも働かなくなって自分に付きまとうばかりになってしまった直助を嘆きながら、それでも先夫の与茂七と違って自分を愛しみ構ってくれるからと、身売り抜きと言えど遊女屋奉公をも厭わない囚われのなさで、明るく立ち向かっていた“女の生活力の逞しさ”とは、余りにも対照的だったように思う。死した岩の伊右衛門への赦しも、ある意味そのような囚われのなさだったのかもしれない。
 終始ピアノ演奏で流れ続けていたバッハの音楽は、映画でもよく使われる聞き覚えのある曲なのだが、観ている間も観た後も思い返すに題名が思い出せないでいた。怪談風ではない新味を狙ったにしても、決してよい効果をあげているようには思われなかったのだけれど、余りにしつこかったので気になって、後日、題名を調べてみたら『主よ、人の望みの喜びよ』だった。僕の受け止めたラストシーンの解釈は、作り手の意図したところでもあったようだ。

 それにしても、スクリーンのなかの関根恵子や夏目雅子の若かったこと。二十七年前の作品だから、当然と言えば当然なのだが、二人とも二十代だ。ついでに言えば、石橋蓮司の若さも四年前に観た花と蛇('03)を思うと、思わず笑いが込み上げてきた。図らずもまさに映画のなかに出てきたような芝居小屋で観たことが思わぬ効果を上げ、スクリーンに映し出された歌舞伎の『累』の舞台が、まるで誂えられた場面のように見えたことも面白かった。だから、弁天座という芝居小屋での上映作としてのチョイスは誤ってなかったように思うのだが、折からの北京五輪の影響もあってか、まるで客足が伸びていなかったのが残念だ。
by ヤマ

'08. 8.17. 弁天座



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