『ミスター・ロンリー』(Mister Lonely)
監督 ハーモニー・コリン


 今回のシネマの食堂の取組みによって、八月末に開催される全国コミュニティシネマ会議2008 in 仙台でのプレゼンテーション要請を受けた「高知県映画上映団体ネットワーク(えいネ〜)」による『ミスター・ロンリー』の上映会は、県立美術館中庭を使った野外上映となるはずだったのだが、折からの雨で直前になってホール上映に変更された。野外会場では、映画の題材に合わせてマイケルとマリリンの扮装をした“ミスターロンリーズ”と称する三人組ユニットによるDJタイムが用意されていて、パイプ椅子を並べた席の脇のスペースには屋外カフェが構えられ、なかなかいい感じだったのだが、大雨注意報の発令には敵わない。それでもぎりぎりまで野外会場を使っていたので、来場者にも雰囲気的なものは掴めたように思う。

 もっとも映画作品のほうは、そういった楽しげなムードとは程遠いところにある些か陰鬱さの拭えないものだった。マイケル(ディエゴ・ルナ)がやけに小さなモンキーバイクに窮屈そうに身を屈めて、脚にローラースケートを履いたモンキーの“バブルス君”を模した凧をなびかせて走る、スローモーション映像の孤独で少々奇異なオープニングシーンが、観終えて後にも印象深く沁みてくる作品だった。そのオープニングシーンで流れていたボビー・ヴィントンの歌『ミスター・ロンリー』が、哀愁に留まらない孤独と悲しみの色濃い歌詞を持っていることを僕は知らなかったから、少々意表を突かれ、字幕を見ながら、先頃観たばかりの告発のときに描かれていたことを想起したりした。
 この曲自体は、東京で一人暮らしをしていた学生時分にFMラジオで毎晩のように聞き流していた城達也の『ジェットストリーム』で親しんでいたものなのだが、よもやベトナム戦争に徴兵された兵士の孤独と望郷の歌だとは思っていなかった。だが、そのことを考えると、映画作品のタイトルにもなっていて、オープニングシーンで全曲流れる楽曲の歌詞の示している“望まずして来た孤独な戦場”というのは、自分自身をアイデンティティとして生きることができずに、何かを演じることで何とか生きながらえようとしている「この世」のことを指しているかのような気がしてくるし、されば、歌詞のなかの“I wish that I could go back home”にある“home”というのは、マリリン(サマンサ・モートン)や修道尼が旅立っていった「あの世」ということになるのかもしれないと感じるのだが、それでは余りに身も蓋もない話だという気がする。

 ふと湧いてきたのは、マリリンは夫チャップリン(ドニ・ラヴァン)と出会っていなければ、どういう人生を送っていたのだろうかとの想いだった。僕には、二人の関係のなかにDV的なものがずっと漂って見えるのが、気になって仕方なかったからだ。
 「ときどき貴方がチャップリンじゃなくてヒトラーに見える」と呟いていたのは、あながちジョークではない本音だったような気がする。マイケルとの出会いのときの会話では、いつからマリリン?と訊かれて「胸が大きくなったときからよ」と答え、スコットランドの小さな古城で夫が営むモノマネ・パフォーマーのコミュニティにマイケルを誘った彼女だったが、チャップリンと出会うまではマリリンに扮したりはしてなかったようだし、パリの街でマリリンの扮装をしてオープンカフェに腰を下ろし、マイケルのような仲間を探し出して勧誘すること自体が、夫から求められてしていたことのような気がする。自らは気の進まぬことながら、夫の求めに応え、携わる以上はそれに馴染み、楽しめるよう憑依するというのは、ある種の女性にありがちなことではあるが、ここに修道尼を重ねているところにこの作品の野心的意図があるような気がする。夫ならぬ神父(ヴェルナー・ヘルツォーク)の言に従い、殉教した修道女たちもまた、自分自身をアイデンティティとして生きることを捨て、神に身を捧げた者たちだという観方ができることを提示していたように思う。マリリンとチャップリンの関係が帰依なのかDVなのかはともかく、作り手は、そこに同質性を観て取っていたような気がする。
 そう考えると、ベッドで妻に「マイケルと寝たのか」などと問いながらセックスをしたり、日焼けしないよう眠ったら起こしてくれるように頼まれながらもわざと放置するような嫌がらせを、ほとんど悪戯心としての愛着や執心の表現だと思っている夫側の暴力性と妻の傷つきにおけるDV的関係の問題が、宗教的権威における支配と従属の問題に敷衍されるとともに、そのような関係性に生きる人のアイデンティティの問題として照射されてくる部分が生まれるような気がする。
 ある意味、宗教という装置が社会的にあまり機能しなくなってきているからこそ、自分自身をアイデンティティとして生きることのできない人々の行き場がなく、他人を演じることで生き延びようとしたり、“孤独”に苛まれる生を過ごすことになっているのかもしれない。だが、“神の死んだ近代”以降の現代なれば、そのような関係性のなかで真っ当に生き延びるのは、奇跡に近く、まれにその奇跡を体現するものがいまだ現れるにせよ、個人的体験に留めずに社会的に敷衍しようとすると、幾多の殉教者を生まずにはおかないというのが、作り手の描いている世界観のような気がする。
 マリリンの死によって、積年の囚われからの脱却を決意しつつも、モノマネ芸人のエージェント(レオス・カラックス)から、無理だと否定され、修道尼たちの死体と飛行機の残骸が打ち寄せた海辺で終わる作品に、前途の希望は宿っていなかった。マイケルは、マイケルを演じるという護身具を捨て、自身のアイデンティティを模索する苦闘の兵士として、現世という戦場に徒手空拳で臨むことにしたわけだが、そこに成算があるわけではない。

by ヤマ

'08. 8. 1. 美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>