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『赤い風船』(Le Ballon Rouge)、『白い馬』(Le Cheval Sauvage) | |||||
監督 アルベール・ラモリス
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両作品とも初見のはずなのだが、先に観た『白い馬』('52)では、オープニング間もなくに現れる“馬の集団が砂山を下って浜に降りる場面”に、なぜか見覚えがあった。きっとTV番組か何かの映画講座のようなもので観ているのだろう。両方とも半世紀を過ぎた作品ながら、少なからぬ量の映画を観てきた僕の今の目で観て、なおサプライズを抱かせてくれるところに驚かされるという大変な作品だった。半世紀も前にという先取性に対する驚きではなく、「映像で語る」という本質性での達成度の高さに対する驚きという点が、大変な作品との印象を残してくれたわけだが、長らく映画を観続けてきたなかでも、とても貴重な経験をしたように思う。 『白い馬』のほうでも、白馬が少年を引き摺って走るところを延々と映し出していた場面に驚いたのだが、何と言っても圧巻は、『赤い風船』('56)だ。映画という表現のエッセンスの結晶だと思わずにいられない見事な作品で、いささか興奮しながら観た。映像表現としての映画という部分に少しでも関心を寄せたことのある人ならば、誰しも観入ってしまうことだろう。「映像で語るということがいかなることであるのか」ということがこれほど純粋にシンプルに結実している作品は、そうそうあるものではない。そして、映画の持つもう一つの重要な要素である“非日常性”についても、また、物語としての展開のダイナミズムにしても、そのリズムにしても、ほぼ完璧と言うしかない見事さで映し出されていたような気がする。 大きく膨らんでいるときの赤い風船の艶やかさが鮮やかで、しぼみゆくときの光沢の落ち方が“死”をイメージさせてくれていたように思うのだが、濡れて光る石畳の美しさや街の路地を切り取る構図の端正、風船の動きに息づきを覚えさせてくれるほどに宿っている生命感が印象深く、そこには、感情までもが表れていたような気がする。奇跡の撮影だ。 とりわけ、赤い風船が死に行く姿とその後に続く数多の風船たちが蜂起する展開を映し出していた画面には圧倒された。風船が命と感情を有した存在として僕の目に映っていたから、街角のあちらこちらから色とりどりの風船が人の手を離れ、空に向かって立ち上り集結していく姿に、僕は“蜂起”を感じたのだろう。あれからパスカル少年は、どこに連れられていったのだろうか。先に観た『白い馬』で、少年を背に乗せた白馬が沖に向かって泳ぎ出て海の波間に姿を消したラストシーンに添えられていたナレーションが「人間と馬が仲良く暮らしている国へ向かった」だったのと同様に、『赤い風船』のラストで、パスカル少年が空を旅して向かったのは、人間と風船が仲良く暮らしている国だったのかもしれない。 赤い風船を部屋に入れてくれずに窓外に放り出した母親、少年が学校で鍵をかけた別室に一人閉じ込められていた姿、彼の友達との関係の様子などによって、パスカル少年の“赤い風船以外に心通わせる相手のいない孤独感”を映画が浮かび上がらせていたことと呼応して、かの蜂起は、赤い風船を葬ったこの世界から、孤独な少年を離脱させるための出来事のように、僕の目には映った。そして、それがまるで彼の願望の成就だったように感じられた。美しくも少し哀しさを覚え、自分の愛好する映画に浸るという行為もまた、『白い馬』での海の向こうへ行くことや『赤い風船』での空の彼方に向かうことに通じているのかもしれないと思った。映画というものには、そういう離脱への誘いを秘めた心地よさがあり、束の間満たしてもくれるわけで、その魅力が、僕をして何十年もの間、スクリーンに向かわせているような気がする。わずか35分の映画ながら、本当に見事な作品だった。 | |||||
by ヤマ '08.11.11. 美術館ホール | |||||
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