『王妃の紋章』(Curse Of The Golden Flower[満城尽帯黄金甲])
監督 チャン・イーモウ


 夜明け前に馬を駆り疾走する国王(チョウ・ユンファ)の一団を包み込む青い月明かりと、王の帰還を受け、後宮も含めた王宮を挙げての支度ぶりを映し出す絢爛豪華な目映い光の対照を交互に繰り出しつつ、王には帰還というよりも何かに追われている強迫の風情を偲ばせ、迎える王妃(コン・リー)には不安と苦悶の色を窺わせ、画面から溢れ出る圧倒的な色彩と物量の過剰さのなかに、比類なき権勢そのものを視覚化していたオープニングから映画の終幕まで、緩みなく貫かれた造形力の素晴らしさに、ひたすら感服させられていた。凄い映画だ。こんなのを撮ってしまうと、後はもう何をやればいいのか困ってしまうのではないかと思われるくらいに桁外れの作品だったように思う。黒澤明監督が『影武者』を撮っていた頃に求めていたのは、色彩設計やアクション設計などの画面構成のみならず、その物語世界やスケール感も含めて、きっとこういうことだったのだろうという気がした。しかも時代的な進展が大きいから、当時、黒澤の描いていたイメージが仮に完璧に実現できていても、この作品世界には及んでなかったのではないかと思われるくらい凄かったように思う。そういう意味では、いささか興奮しながら観ていた。思えば、黒澤は“天皇”という呼称も得ていたようだが、この映画を観ていると、君臨しているのは王ではなくて正にチャン・イーモウ監督だったような気がする。今、これだけのスケールと豪奢を画面で見せつけることのできる映画監督は、他にいないように思えた。

 僕が黒澤の『乱』や『影武者』を想起した一番の理由は、この作品に、シェークスピア劇かギリシャ悲劇かというような大時代的な世界が見事に造形されていたからなのだが、そういった作品の成否の鍵を握るのが、様式性と躍動性のバランス加減であることを改めて知らされたような気がする。一般に“スケール感”のある美や主題を描き出すには様式性というものが甚だ有効だし、スケール感のみならず、その物語や人物造形の描き出す美や主題に“普遍性”を付与するうえでも、様式性は一つの強力な手法だ。しかし、物語にしても人物造形にしても、様式性が過ぎると生き生きとした躍動性というダイナミズムが失われ、図式化してくる。従って、両者のバランス加減は、創造上の大難題と言えるわけだが、だからこそ、映画に限らず文学であれ演劇であれ、多くの作り手が最終的にはそこを目指し求めるのだろう。シェークスピアの偉大さを讃える者が一般の人よりも専門的な研究者や演劇や文学の作り手の側にある人たちに多く見られるように思われるのは、そういう意味で蓋し当然のことのような気がする。だから、この作品もポピュラーな支持は得られにくいように思われるが、僕は、この作品がチャン・イーモウの到達した幾つ目かの頂点であり、かつこれまでの最高峰だという気がした。

 武芸の腕前だけでなく書もよくし、医療薬術の素養さえも備える卓抜した力量を有した男であっても、武官出身なれば王家の血筋を手に入れることが己が大望において必要不可欠だったあたりに彼の完全主義者ぶりが窺えるのだが、梁王の娘を妃に迎え入れるために放逐した先妻の写し絵を祭り飾っていたあたりに、己が講じた手立てに対する悔恨をやや滲ませているようにも思われた。そして、決して後戻りはせず、むしろ非情に非情を重ねる仕打ちをもってしてまで守ろうとしていた権勢が、そうまでして守るに足るだけのものを彼に与えていたようには見えず、むしろ権勢を手中にしたことによって国王として君臨し続けるべく強迫されることで、彼が失い、犠牲にしてしまっているもののほうが大きいように見えた。冒頭の場面で、帰還と言うよりも追い立てられているように映っていた彼の姿の意味は、そこにあるのだという気がする。武官から身を立て王となり、己が血筋に権勢を継承させ、王国の開祖として後世に名を残し君臨し続けるという彼の最終目標は、日本の豊臣秀吉もそうであったように、成り上がりの権力者には、ある種普遍的なもののようだ。そして、その結末もまた普遍的と言えるところに帰着していて、彼の最終目標があえなく潰え悲劇的な顛末を迎える無常の物語だったわけだが、国王が単に権力欲に囚われた俗物のようには描かれていなかったところが要点で、むしろ彼ほどの人物であっても、かほどまでに桁外れの権勢を手にしてしまうと、結局は虚しく滅び敗れていかざるを得ないことを示すことによって、権勢と君臨こそがトリカブト並みに恐ろしい毒であることが浮かび上がってきていたような気がする。二人の兄と違って、王位に就く器量に対する畏れにも研鑽にも思いが及ばず、幼稚な権勢欲と僻みに目が眩んで取り返しのつかない愚行に及んだ末子成王子(チン・ジュンジェ)の情けなさへの憤怒と悲嘆から死してもなお打擲を止めずに死体をボロボロにしてしまう国王の姿が印象深く、貫禄と彫りの深い人物像をチョウ・ユンファが見事に体現していたように思う。

 そのチョウ・ユンファ以上に圧巻だったように思われるのが、王妃を演じたコン・リーだ。こともあろうに、先妻の息子たる長男祥王子(リウ・イエ)と三年に及ぶ不義密通を重ね、次男たる我が子傑王子(ジェイ・チョウ)に梁王として王国を継承させる野望に挑んで敗れ、一家を破滅に導く王妃を強烈な存在感で演じて凄みがあった。彼女が義子と男女の仲になった直接的な動機がどこにあったかは映画のなかで示されていなかったように思うが、国王が二子も設けた王妃に対して“冷たい女”すなわち不感症の癇癪持ちと見立てて、薬を煎じ飲ませ始めたのは確か七年前だったようだから、義子との密通には先立つわけだけれども、性的不満が息子との密通に向かわせたようには思えない。国王の台詞によって示された彼女の不感症と癇癪持ちについての僕の受け止めは、王の意に背くことをした傑王子を辺境の地に追い遣った懲戒に対して、王子を溺愛する彼女が取りなしを求めたにもかかわらず、容れて貰えなかったところから二人の関係が軋み始めたのではないかというものだ。国王が王宮への帰還に先立ち、懲戒を解かれて都に戻るに際して王の帰還を待って城外に停泊している傑王子を呼び寄せ、その改心と成長ぶりを見極めるとともに後継者としての器を量ろうとしているかのような場面が序盤にあったのは、恐らくそういうことなのだろう。だが、勝ち気でプライドの高い王妃は、王が息子に取った措置と自分への態度が許し難く恨みに思い、不満とともに堆積させていくなかで次第に復讐心へと転成させていったのではないかという気がした。そして、王への面当てとして最も強烈なのが義子たる王子との不義密通だと考えたのではなかろうか。大胆不敵にも程があるが、コン・リーが演じると、そういう激しさとタフさがいかにも似合っているような気がしてくる。だが、祥王子は気弱い優男で、美しい義母の誘惑に応えるばかりか、父親の目に脅えつつも惑溺していったのではなかろうか。彼に施されていた人物造形からは、そういった様子が偲ばれたように思う。またそうなると王妃のほうも、夫とはまるで異なる王子の心の向かい方にほだされて、木乃伊取りが木乃伊になっていくわけで、祥王子が父親への疚しさと若い蒋嬋(リー・マン)との恋への目覚めから、もはや終結させようとしている不義密通の関係に、見苦しいまでに王妃が執着するようになっているさまが描かれていたのは、そういうことなのだろうと思う。

 だが、この段階での王妃は、傑王子に梁王として王国を継承させるとの思いまではまだ抱いてなかったような気がする。単に国王の後継者に、義子ではなく我が子たる傑王子を据えたいとの思いだけだったのだろう。ところが、国王が王家の血筋の自分に愛で報いないばかりか病を装った毒殺を仕込んでいるうえに、祥王子が国王を継いだ場合に王の実母となる先妻が存命しているという屈辱を自分に隠して負わせているばかりか、大望のためにはあらゆる犠牲を払い、冷酷にもなれる徹底主義者の国王が、先妻に対しては犠牲を強いたとは言え、抹殺まではできない甘さを残すほどに想いを寄せていたことに気づいたことで、自分が今まさに殺されようとしている屈辱に怒りが募り、傑王子も畏れ驚くようなクーデターの画策に至ったような気がする。

 長男に継がせたかった王位を、それに耐える器量の点からやむなく次男に見定め、図らずも王妃の望みに添う決断をしていたにもかかわらず、それを公にするはずだった重陽の宴を目前にして、全てを台無しにするクーデターを当の次男に起こされてしまったり、祥王子と蒋嬋の恋によって二人の実母たる先妻を卒倒させてしまうような、運命の皮肉では済まない人為の全てが、国王の身から出た錆であり、権勢と君臨に囚われ強迫されることの帰結であることを強烈に描き出していたように思う。見事なものだ。





推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20080423
by ヤマ

'08. 4.20. TOHOシネマズ8



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>