『クローズド・ノート』
監督 行定 勲


 発表会を目前にした大学マンドリン部の練習で、外れた音を出す堀井香恵(沢尻エリカ)に、瀬川(篠井英介)がしっかりした音を出すよう注意するとともに漢字でどう書くかを教えていたことに続く形で、香恵が入居したばかりの趣きのある木造アパートの前の住人である真野伊吹(竹内結子)が残した日記から、彼女が単に自分の目指す小学教員であるばかりか、とても確りと教職に取り組んでいて、日記にも瀬川に教わった字を確りと使っていたことに感心しつつ、挟まれていた写真から窺える伊吹の姿に憧れに近いものを抱いている様子が描かれていたが、映画そのものも、清潔感の漂うなかに“確り”したものが宿っている、いい作品だったように思う。今の時代なればこそ余計に、こういう形で先生という職業への夢を誘うことには値打ちがあるような気がする。生徒の“心の力”であれ、想う人の才能や心根であれ、信じ続けて見守り背中を押すことの成し遂げるものには、侮れない力があって、気持ちよく心打たれた。

 伊吹の思いの強さには“信じる力”が宿っているから、不登校の君代の心をほぐし得たのだろうし、死して尚いっそう石飛隆(伊勢谷友介)の心を捉えていたのだろう。そして、それを“確り”とした言葉で日記に綴っていたからこそ、見も知らぬ香恵の心をも捉えたのだろうと思う。その言葉を綴るうえで必要な筆記具としての万年筆という小道具が絶妙に活かされていて、遠い昔、僕も万年筆で日記を綴っていた日々を思い起こさせられた。そして、今やキーボードしか叩かなくなっているなかで、また、万年筆を手にしてみたい誘惑に駆られた。石飛は、伊吹の後ろ姿に突如激しく惹かれ、咄嗟に彼女の使っていた万年筆で素早くスケッチしたであろうときの感触を求めて、香恵のバイト先であるイマヰ万年筆を訪ねたようでもあったから、香恵の語る“出会い”をもたらしてくれたのは、伊吹だとも言えるわけで、香恵と石飛の出会いは、伊吹に囚われ続けている彼に、伊吹が「もうそろそろ次の歩みを始めなさいよ」と送り届けたもののようにも映ってくる物語だった気がする。初の個展の開催パーティでの石飛の嗚咽を引き出す場面以外でも、思い返せば、香恵の発していた言葉には伊吹の託した願いというものが宿っていたように思う。そのように考えると、予告編で繰り返し見せられた「私じゃダメですか、私、出会ったんです。」という、突拍子もなく強く率直な香恵の求愛の言葉にしても、そこに伊吹の願いの強さが及んで引き出された不思議が籠もっていたようにさえ思える。伊吹先生に負けないような先生になりたいという香恵の決意の言葉にしてもそうだ。なんとなく先生にでもなろうかという漠然とした思いでいたような香恵に生きる指針を与えると同時に、小学教員になって日も浅い内に道途絶えた自分の後を引き継いでくれる後輩を生み出した伊吹の日記の言葉だったわけだが、それがそのように作用し得たのは、そこに伊吹の魂の強く願うものがあったからだという気がする。「心」にも「信」にも共通するシンの響きが「真」に通じていくような余韻を残してくれた素敵な作品だったように思う。

 映画公開時の舞台挨拶での沢尻エリカの態度が悪いということで、イラク人質事件あたりからとみに顕著になってきているように感じられるバッシング好きのメディアから、さんざん叩かれていたようだが、作品勝負という点から観ると、やはり彼女は、本当にいい女優だと思う。しゃきっとした芯の強さを柔らかな表情で包み、銀幕で輝いていた。竹内結子ともども笑顔がとても素敵で、二人の女優が醸し出す清潔感が気持ちのいい映画だったように思う。この作品の基調とも言うべき“物思い”には、溜息・吐息・息遣いというものがとてもよく似合う。それゆえに、二人ともにその様子が頻繁に出てくるのだけれども、両者ともにとてもニュアンス豊かに溜息・吐息・息遣いを漏らしていて、何とも心に沁みてきた。

 それにしても、これくらいの物語を二時間半近くの長尺に仕立ててついぞ飽きさせないのは、役者に恵まれただけでは済まない力量が作り手に備わっている証拠だと思う。残された日記を読み進めるうちに、香恵が伊吹と共にそこにいるような感覚に浸るようになっていることを描いた手法は映画ならではのもので、格別斬新なものではないながらも、とても巧く活かされていて、なかなかあのようにはできないように思う。万年筆に限らず、テスト用紙や紙飛行機など小道具の使い方も巧みで、古いアパートの佇まいにも味があって、目にも心にも美しい作品だったように思う。

 ひとつしまったと思ったのは、12月に上映されるのを楽しみにしているアヒルと鴨のコインロッカーの原作を読んで、二年前と現在という二つの時制を細かく交互に綴っていく構成が、ある意味、非常に映画的だと思いつつ、終盤で明らかになった事柄が驚くべきことで、これは小説だからこそ取れる構成であって、この小説の構成をそのまま映画に取り入れることは決してできない話だと感じたから、どんなふうに映画化しているかがとても興味深くなっていたのに、『クローズド・ノート』で一つの回答を出されたように感じたことだ。全く同じやり方をしていたら、ちょっと痛手を蒙ることになる。

by ヤマ

'07.10. 4. TOHOシネマズ6



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