『ツォツィ』(Tsotsi)
監督 ギャビン・フッド


 前日に、『パーフェクト・ストレンジャー』などという、展開は面白いのだけれども、あらゆる面で品位を欠いているようなアメリカ映画を観てきたところへ、かように生存が厳しいスラム生活のなかで“品位”について語っている南アメリカ映画(英国合作)を見せられると、日本社会がアメリカ的になればなるほどに失ってきたものについて、改めて考えさせられるように感じた。

 日本には「貧すりゃ鈍する」という慣用句があるけれど、昨今は「貧しなくとも鈍する」という状態が当たり前になっていて、鈍している分、判りやすさばかりを追いかけ、どうにも“烙印社会”とも言うべき様相を呈してきているような気がする。この作品において、デビッド(プレスリー・チュエニヤハエ)が本名を名乗らずに“不良”という意味のレッテル言葉である“ツォツィ”を自身の通称としているのは、ある意味、象徴的な気がした。

 それこそ彼は、手の付けられない不良で、仲間の犯す殺人に些かも動揺することなく、自らも簡単に婦人に向けて発砲をしてしまう少年だったが、思い掛けなく赤ん坊を拾い、捨てられずに引き取り育てようとするなかで、人間性と“品位”を取り戻し始める。昔観たアメリカ西部劇に、アウトロー三人男が赤ん坊を拾ったばかりに、とんでもなく苦労しつつも人間性に目覚める三人の名付親という作品があるが、赤ん坊という無垢なる存在にはそれだけミラクルな力があるということだ。これは、世の東西を問わぬ普遍的な価値観であって、日本でも似たような話が昔の時代劇によく登場したし、「泣く子と地頭には勝てない」というような慣用句が残っていたりもする。

 ところが、近頃の日本では、南アフリカのスラム生活ほどには貧していなくとも、赤ん坊殺しが頻発しているし、殺伐とした事件が横行していて、この映画のブッチャーのような輩が珍しくもない社会になっているように思える状況だ。TVを中心にしたメディアの喧伝によって、その状況にもすっかり馴れてしまって、“ツォツィ”を名乗るデビッドのような存在の可能性を想像する力に鈍してしまい、やれ少年法の改正だの、刑罰の厳罰化だの、それこそ、よく映画に出てくる見せしめの磔刑に興奮する昔の群衆の「殺せ!殺せ!」といった愚民コールじゃないけれども、烙印を押して、騒ぎ立てたがる傾向が強くなってきているように思う。ブランド、セレブ、勝ち組・負け組、ネットカフェ難民、ハケンなど、中身や意味を深く考え問うことなく、レッテルを貼ることで対処していく風潮が蔓延っていて、メディアツールに上手くのせてラベリングを果たした者によって世論が左右されるようになっていることも、それと同質のものだという気がしている。

 そういう風潮を常々苦々しく思っている僕なのだが、それでも、いつの間にか自分が同化というか影響されていることを、この映画で手痛く知らされてしまった。昔観た西部劇『三人の名付親』に感銘を受け、未だに覚えている僕が、この作品のデビッドの姿に素直にリアリティを受け取れなくなっていて、少々衝撃を受けた。もはや赤ん坊の持つミラクルな力の持つ普遍性を僕も信じられなくなっているということかもしれず、風潮とか時代の持つ空気といったものの怖さを改めて思い、些か応えた。

 少し救われたのは、ツォツィには感銘を覚えられなかった僕でも、彼に銃で脅されながらも、その脅しに屈する形ではなくして、赤ん坊に乳を与えていたミリアム(テリー・フェト)の品位については、素直に受け止めることができたことだった。若くして戦争未亡人となり、スラム街での貧しい自活を余儀なくされているにもかかわらず、ツォツィが報酬としての金を渡そうとしても受け取らない彼女の毅然とした態度と我が子でなくとも赤ん坊に向ける慈愛に溢れた態度には、神々しいまでのものがあった。それゆえに僕の目には『三人の名付親』のときとは違って、ツォツィを変えたのが、赤ん坊ではなくて彼女であるように映った。盗んだ車の後部座席に残されていた赤ん坊を引き取り育てようとしたツォツィの行動には引っ掛かりを感じたけれども、そんなミリアムにツォツィが惹かれ、彼女に感化されるようにして人間性と“品位”を取り戻し始めている姿には、大いに納得感を抱いている。




推薦テクスト:「FILM PLANET」より
http://filmplanet.world.coocan.jp/recordT02.htm#tsotsi
by ヤマ

'07.10. 9. あたご劇場



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