『西遊記』
『ワルボロ』
監督 澤田鎌作
監督 隅田 靖


 TOHOシネマズのマイル数が6000を超えたので、1ヶ月フリーパスポートにしてきた。休日だから、今や昼間しかやってない『西遊記』『レミーのおいしいレストラン』を観ることにして、その間の時間帯に観られるワルボロとの三点セットにしたのだが、観てみると、期せずしていずれも“なかま”について強く訴えるところを織り込んだ作品であった(『西遊記』での悟空は“なまか”と言ってたけれど)。

 そのなかでも、『西遊記』と『ワルボロ』の取り合わせが自分にとっては興味深かった。どちらも僕の嫌いな暴力とか闘いを称揚しているように映るのに、『西遊記』は僕にとって嫌な味が強く、『ワルボロ』には好感を覚えたので、どこにその違いがあるのだろうと振り返ってみたわけだ。

 一つには、場面やキャラクターを見せるためだけに作っているような『西遊記』の運びや筋立てのがさつさが気に障ったのと、そのがさつさというものが作品のメッセージ性においても顕著に窺えたことだったように思う。その点、『ワルボロ』という悪たれ映画には、『西遊記』にはないデリカシーが備わっていたような気がする。次に、映画の始まりと終わりで全く変わりなく成長も変化もない悟空(香取慎吾)とそうではないコーチャン(松田翔太)の違いというのも大きいように思う。しかし、一番の違いは、暴力沙汰に大義を掲げる押しつけがましさを美化している『西遊記』と、ヤンチャ坊主達が自身のアイデンティティのやむなき発露として発揮していた『ワルボロ』という点だったように思う。悟空の騒々しさに辟易としたということも多少は作用していたかもしれない。


 僕の記憶のなかにある『西遊記』は、師匠との旅のなかで成長していく悟空の姿が描かれるところに味噌が詰まっている物語だったように思う。そのうえで、時として師匠といえども弟子たる妖怪たちから教わり学ぶことがあり、また弟子から学ぶような姿勢を備えているが故に、三蔵法師の師匠としての格の高さが偲ばれるという作りだったような気がする。それなのに、この作品では、悟空は、オープニングの姿とエンディングの姿が全く変わりなき同じものとして強調され、物語の過程においても、単純で粗暴ではあっても「なまかとの約束は絶対に守らなきゃなんねぇ」と終始一貫して訴える原理主義的な“強くて勇敢で正しい存在”として描かれる。そこにあるのは悟空の“ヒーローとしての絶対性”で、しかも粗暴で単純で騒々しいといった欠点をも丸飲みさせることを含めて押しつけてくるような作り手のスタンスだったように思う。欠点だらけの原理主義者という一昔前のヤクザ映画のヒーロー像とあまり変わらないキャラクターを、ヒーロー像らしからぬヒーロー像としてではなく、堂々たるヒーローとして押し出してくるような映画には鑑賞制限が必要ではないかと思わされるほど、タチが悪いような気がする。

 おまけに、悟空が「なまか」として命懸けで大切にするのは、生産労働に従事する村人ではなくて王女たる玲美姫(多部未華子)であり、魔王金角(鹿賀丈史)・銀角(岸谷五朗)から守ろうとしたのは村人ではなく、国だった。『西遊記』はいつの間に、攻め入られた国を守るために人々が武器を手にして闘うことを賞揚する物語になったのだろう。いくらフジテレビ制作の作品とは言え、仲間と約束の大切さを訴えるおとぎ話で偽装して、大人以上に子どもへの刷り込みを狙ってかようなヒ-ロー像と国防主義を画策されると少々気分が悪くなった。十六年前に山形国際ドキュメンタリー映画祭'91での特別企画“日米映画戦”で観た戦時中の日本の戦意高揚アニメーション映画『桃太郎の海鷲』を思い出した。

 今回の『西遊記』の製作には東宝も名を連ねているが、例えば、西遊記ではなくて黒澤の『七人の侍』をかような形で村人から国に変えてリメイクしたいとの企画が持ち込まれたら、それが映画興行に強いフジテレビからだと、やはり共同製作をしてしまうのだろうか。今回の『西遊記』の改変は、僕にはそれに等しいことのように思えたのだが、そのように改変された『七人の侍』を観る日など、決して来てほしくはないものだ。

by ヤマ

'07. 9.20. TOHOシネマズ4



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