『かもめ食堂』
監督 荻上直子


 僕は、荻上直子監督作品を苦手にしていて、最初に観た『バーバー吉野』('03)の後、『恋は五・七・五!』('04)、『星ノくん・夢ノくん』('00)と、ほぼ全作品を観てるのだけど、妙に運びにあざとさを感じたりして、素直に笑えなくて相性が悪いと感じている。ところが今回の物語は、初めての原作もので少し風味が異なっているようで、その塩梅加減が僕にとっての一番の注目どころだった。

 小林聡美(サチエ)・片桐はいり(ミドリ)・もたいまさこ(マサコ)という個性派女優の取り合わせも楽しみだったのだが、フィンランドに舞台を構え、アキ・カウリスマキを意識したらしいとの作品のオフ・ビートな笑いが本家にどこまで迫れているのかが楽しみだった。また、最後にはカウリスマキ作品とはむしろ対極にあるような幸福感が待っているとも聞こえてきており、何とも不思議な映画のようだが、それにしても、ヘルシンキの“おにぎり食堂”だなんて、何ともトボけてるよな~と思いながら観てみると、とても気持ちよく、気分よく見ることができ、いろいろ触発されるものもあった。とりわけ、人生っていうのは、本質的には“過ごす”ものであるという日頃からの僕の思いをまさしく写し取ってくれているような作品であったところが、なんだか嬉しかった。

 一度しかない人生というものは、夢を持って臨み、何事かを成し遂げるべきものとして位置づけられがちなのだが、1976年に卒業した高校のアルバム委員を務めていた僕が、自分のクラスのページの表題にした一言は、かの有名な「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」をもじった「成れば成る 成らねば成らぬ何事も 成るも成らぬも 事の成行」といった有様で、当時、担任の先生の顰蹙を買った覚えがある。その頃から既に、僕にとって人生は、何事かをなすべきものとして与えられている時間ではなく、いかにして自分流にて過ごすかが問題となるべき時間として意識されていた記憶がある。およそ、成すことを左右するのは、本人の才能や努力といったことよりも大きな割合で、事の成り行きのほうだったりするのだから、まぁ、ただただ漫然と過ごしたり、ひたすら怠惰に流れることを以て“楽”と勘違いするような愚を犯すのは論外としても、当人の力及ばぬところで支配されていることに過度に強迫されていても、人生つまらないではないかとの思いが強かった。もっと大らかに構えていたかったわけだ。

 そのような観点からすると、ヘルシンキに日本食の食堂を開いても、儲けようだの、名を挙げようだのといった野心などまるで持ち合わせていないサチエは、まさしくそのような人生観で以て日々を過ごしているように僕には見えた。そのさまが、のんびりと堂々としていて、颯爽とした印象を残してくれるのだが、その根幹にあるのは“きちんとしている”彼女の生活態度にあるようにも感じられた。サチエの経営する“かもめ食堂”は、食堂にしては珍しく、キッチン部分が丸見えで、外からも全てが見渡せる室内の明るく清潔な佇まいが印象的だったが、映画作品としてサチエの人物像を語るうえでも、この空間設計が大いに効いていたように思う。そして、調理台のうえも調理道具も具材もどれも清潔できちんとしていた。この食堂が、日本の街並みには似合わず、北欧のヘルシンキにこそ似合っている姿を観ていると、この“清潔できちんとしていること”というのが、まさしく今の日本に最も欠けているものであることがしみじみと感じられる。

 ミドリやマサコが、かもめ食堂に引き寄せられ、居着いてしまうのもそれゆえなのだろう。サチエというのは、まさしくムーミン谷の住人のように、ちょっと不思議な存在感を発していたように思う。片桐はいりやもたいまさこのようにいかにも個性的で風変わりな人物が似合いそうな女優を配して、それ以上に不思議な存在感を要する役どころを負って見事に体現していたのだから、小林聡美は大したものだ。彼女の気張りや構えのない淡々とした口調がなかなかよくて、井上陽水の透明感のある声がよく似合っている映画だった。陽水は、やっぱ、いいなぁ。人生は、慌てず急がず、太極拳か居合道の呼吸法でゆったり構え、競泳などせずに遊泳し、のんびり堂々と過ごしたいものだ。



参照テクスト:掲示板談義の編集採録

by ヤマ

'07. 3.21. 自由民権記念館・民権ホール



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