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『クリムト』(Klimt) | |||||
監督 ラウル・ルイス | |||||
監督・脚本が映画日誌にも綴った『見出された時』のラウル・ルイスだけに、ドラマ的には何やらよく分からない印象を残す作品だったが、エゴン・シーレ(ニコライ・キンスキー)と看護婦の二人だけに看取られているグスタフ・クリムト(ジョン・マルコヴィッチ)の、死期迫るなかでの妄想的な回顧として描かれていた映画だから、仕方ないといえば仕方ない。エロスとタナトゥスを描いた画家としてのイメージを画面に現出すべく、ヌードモデルや傷兵、骸骨標本などが頻出していたが、クリムト自身の妄想的回想を主軸にしていたので、いわゆる伝記的な物語としての知見を得られるような作品ではなかった。 その意味では、クリムトの生涯についての予備知識をある程度持っているか否かで随分と見え方が異なってくる作品だったような気がする。あまりその準備ができていない僕にとっては、物語的には今いち物足りなかった。とりわけ残念なのは、クリムトと対照的に、夭折ながらも数多くの自画像を残した若き友人であるシーレに最期を看取られつつ逝ったクリムトが「自分自身には興味がないから自画像を描かない。」と語っていた、彼自身の内面を窺わせるものに乏しく感じられたことだった。続く彼の言葉「むしろ他人、特に女性に強く惹かれるのだ。」については、惜しげもなき全裸の美女がふんだんに登場し、いかにもアート系映画らしく無修正で、しかも黒毛・茶毛・無毛とバリエーションも豊かに見せてくれるのが目を惹いたものの、出てくる裸体は、しかし、当然ながらゲージツのためのモデルとしてであって、性的場面においては、几帳面なまでにヌードを避けているところがまた妙におかしかった。そういうふうに澄まし込んでいる感じに、映画作品としてのスノッブな浅薄さが漂っているのだが、もしかしてそれこそがクリムトのイメージとして作り手の描出したかったものだとすれば、これは相当に過激で痛烈な作品というべきものなのかもしれない。確か性行為そのものを画面に映し出した場面は、冒頭のシーレが病床にあるクリムトを訪ねた病院の一室で、義足を外して事に励んでいる男が1・2,1・2と奇妙な号令とともに抽送運動をしている図のみだったように思うが、官能性とは馴染みにくい描き方で、律儀にも男女ともに全身着衣のままであったように思う。 パリでは好意的に向けられ、絶賛を博しながらも、本国では毀誉褒貶著しく、それなりのステイタスを得つつも、満たされない思いのほうを強く残して生きていた人物として描かれていたような気がする。挑発的で謎めいたフランス女性のレア(サフロン・バロウズ)の存在が示しているのはそういうものなのかもしれないと思いつつ、今ひとつピンと来ずに、どこに出入りしても、まるで招かれるたびに供物のようにして裸女をあてがわれていたように見えたクリムトの姿は、それが彼自身の今わの際の妄想的な回顧であったにしても、なんだか癪に障るものがある。「モデルに触れないと描けない」と公言しつつ触れるばかりか多くの子供をもうけ、遊蕩に耽って梅毒に冒されながら、ウィーンには彼の子供が30人いたとの行状は、当時それが資力と名声の備わったステイタスを得た男たちにありふれたことだったにしても、観ていて愉快な話ではない。そういった事々よりもやはり画家としての彼を描いてほしく感じたのだが、どうも作り手は彼の画家の部分にはあまり関心がなかったようだ。それはそれとして、放蕩三昧の末に55歳で死んだ男の、生涯に渡る恋人ミディ(ヴェロニカ・フェレ)との実際の関係が、この映画に描かれていたような形でのプラトニックであることを強いたようなものだったのであれば、全くクリムトの手前味噌のいい気さ加減には呆れるばかりだが、そういった頓珍漢をいかにもやってそうな人物像をマルコヴィッチがうまく演じていたようには思う。だから、尚のこと何だか面白くない話に思えたのかもしれない。 | |||||
by ヤマ '07. 8.13. 美術館ホール | |||||
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