『見出された時』(Le Temps Retrouve)
監督 ラウル・ルイス


 20世紀文学の最高峰とも謳われるマルセル・プルーストの『失われし時を求めて』は、名のみぞ知る作品で、無論読んだことのないものだし、大長編であるとともに難解だとも聞いているが、まさにその文学の金字塔との格闘の跡が窺われる作品だった。映画化されたのは、最終篇に当たる部分のようだが、おそらくは錯綜する回想の醸成するイメージの混沌のなかにある測りがたき存在としての人間とそれを見つめ続ける魂の対話といったものが原作の骨格でもあったろうと推察できる。

 冒頭のタイトル・ロールの映像は、渓流のなかで押し流され、おもむろに転がり留まりしている小石の映像だが、あたかも人の人生のようにと言わんばかりの解りやすさは、ここだけだった。たくさん登場する人物たちの関係はまだしも、肝心の人物像が浮かび上がってこないままに三時間近くの大作を見せられることに、いささか閉口した。おそらくはこれも原作が明瞭で解りやすいキャラクター造形を許さないような人物描写に、その文学的精力を注ぎ込んでいることの忠実な反映なのだろうが、観る側としては倦んでくる。せめて会話にそれなりの意味があればまだしも、戦時下でも浮き世ばなれした社交界での上流階級の世間話の描写が大半なのだから、退屈きわまりない。かろうじて判りにくい人物関係のあらましを追うヒントを会話のなかに求める興味で、自分のなかでの観続けることへの欲求を繋いでいたような印象だ。

 しかし、その判りにくい人物関係を追うことが、最終篇『見出された時』の鑑賞に際しての主題になってしまってよかろうはずがない。加えて、時制の混沌があり、さらには、一つの場面に同じ人物が年齢を違えて同時に登場したり、オーバーラップしたりする。

 これもまた、おそらくはプルーストの原作が、物語を展開していくものではなく、自身の回想イメージを奔放に書き綴ったなかで、一つの回想場面に対して、回想現在での言葉で綴ったり、回想当時の言葉で綴ったり、さらには今より若い時点での回想の言葉で綴ったりと、過去の出来事や場面に対する人間の記憶という作業のありさまを丸ごと言葉にしたような文章であったことの映像化なのだろうという気がする。総てが回想としての記憶の描写でありながら、そこにリアリスティックな映像とシュールな映像イメージとを混在させているのもそれゆえであり、フレームのなかでカメラの動きに対して不自然なズレ方をして動く人物の位置なども記憶のゆがみとねじれを示しているのだとは思う。

 しかし、振り返ってみて思い当たる、徹頭徹尾ひたすら「見者」であり続けたマルセルの「見者」としての思弁も感情もほとんど伝わってこなかった。ピアノを聴きながら流した涙の場面よりは、今やフランスの文学賞名として名を残しているゴンクールへの対抗心にからくもプルーストの感情的なものを受け取ったのみだった。豪華なキャストと充実したスタッフの力量はひしひしと感じさせたうえでなお、本来的な意味では作品たり得てないのではないかと思わせる映画化であったということは、さぞかし原作は桁外れの作品なんだろうなと偲ばれる。これだけの結集を果たしても、原作の雰囲気を表現するだけで精一杯だったという感じだ。

by ヤマ

'01.10.18. 県民文化ホール・グリーン



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