『パッチギ! LOVE & PEACE 』
監督 井筒和幸


 前作パッチギ!とは比べるべくもないようには思うものの、随所に笑いの小ネタが仕込まれ、アホさと志とが素朴な反骨心と共に織り交ぜられていて楽しませてくれたので、存外悪くはないように思った。

 とりわけ、本作の一週間前に封切られた『俺は、君のためにこそ死ににいく』の公開を待って上映を始めたかのようにさえ思える公開時期の設定が実にタイムリーで、劇中映画『太平洋のサムライ』というタイトルは、現職大臣の自殺に寄せて石原都知事がちょうど“サムライ”との呼称を使ったために、更なるオーバーラッピングをもたらしてくれたような気がする。そう言えば、この劇中映画のプロデューサー三浦(ラサール石井)が使っていた“三国人”という蔑称は、『俺は、君のためにこそ死ににいく』のエグゼクティヴ・プロデューサー&脚本たる石原都知事の慣用語でもあるから、モロに当てこすっていたのだろうという気がする。三浦プロデューサーが、愛国心鼓舞の形に脚本のセリフを現場で書き換えさせる場面までもあった。しかし、興行成績では、どうやら東映配給の石原作品に敗れ去りそうな気配だ。だが、気概は、むしろシネカノン配給の井筒作品のほうにありそうに思う。気概というよりも、単純素朴な“ヤンチャ”と呼ぶべきものかという気がしたのだが、ちょうど佐高信も、チラシに掲載されたコメントのなかで、その言葉を使っていた。井筒監督のヤンチャへの憧れの強さというのは、誰しも思うことのようだ。

 だが、74年を描いた作品での井筒のヤンチャの矛先が、今現在の石原都知事と彼の多選を許す日本の社会状況に余りにも直球で向けられたために、この作品が70年代の時代感覚を損なうことになったような気もする。やはり『俺は、君のためにこそ死ににいく』は、日本を席巻したバブル経済とその崩壊以降における世情のなかで生まれたものであって、74年当時の日本には、『太平洋のサムライ』が制作されるような時代的な空気は、まだなかったような印象が僕のなかにはある。

 また、物語がキョンジャ(中村ゆり)兄妹の親子の物語という縦糸軸に絞り込まれていたために、前作のような若者の群像劇といった横糸軸の広がりによるスケール感のある時代感覚というものが立ち上らなくなっていたような気がする。その代償として、歴史認識や差別と同化の問題がクローズアップされていたわけだが、僕にとっては映画的興趣として前作のようには響いてこなかった。それには、いくつか理由があるけれども、最も大きなものは、作り手のなかに言わば“パッチギ!スタイル”という自縄自縛が働いていて、前作のパワーの源でもあった“放埒なエネルギーの放射”など宿りようのない形式性に囚われているように映ったという点だった。乱闘の喧嘩シーンが全く活きてこずに、乱闘での頭突きを出さないと映画タイトルにならないと作り手が思い込んでいるからという性質の必然性しか感じられなかったところが一番の弱みだったように思うわけだ。

 前作で乱闘の喧嘩が生きていたのは、日誌に朝鮮学校のリ・アンソン(高岡蒼佑)らがチェドキ(尾上寛之)の弔い合戦ともいうべき大喧嘩を京阪の日本人不良高校生たちと川端で繰り広げながら、桃子(楊原京子)が出産の苦しみと闘い、康介(塩谷 瞬)が万感の思いとともに“イムジン河”をラジオ局で歌う、という形で織り交ぜられた場面編集が効果的で、それぞれに若者たち皆が闘っている姿に打たれ、まさに映画のタイトルになっている“パッチギ”を心に喰らった。時代そのものが日本に限らず、闘う若者の時代だったわけだが、彼らのそういう姿を観ていると、改めて若者には格闘し、エネルギーを放射する姿が似合っているとの感慨が湧く。それは何も殴り合いの喧嘩をすることばかりではなく、それぞれにそれぞれの闘い方があることが自ずと浮かび上がってくる場面編集だったと綴ったように、若者には時に放埓なまでのエネルギーの放射できる時期というものが必要で、その経験のなかで人として成長し、大人になっていく姿が群像的に捉えられていたからなのだが、親子の情の物語のなかで歴史認識や差別と同化の問題を問い掛けても、そのようなエネルギーの再現はしにくい気がする。それにもかかわらず『パッチギ!』というタイトルを引きずらざるを得ないなかで喧嘩乱闘の場面が踏襲され、闘う相手としての歴史認識や差別と同化の問題が必要とされたのだろう。

 物語としての必然性ではなく、作劇上の都合からの必要性のほうが強く伝わってきた部分は他にも散見されたように思う。多くの人の不興を買っているらしいチャンスの難病にしても、あまり上手な設定ではないけれども、アンソン(井坂俊哉)がもはや度の過ぎた悪ふざけではすまない犯罪に手を染め、キョンジャが身を売ってでも伸し上がろうとする動機づけに見合うのっぴきならなさという必要性に応えるものだったように思われるし、また、キョンジャにそこまでさせるうえでは、母親が存命では不都合なので、桃子が亡き者とされていたような気がする。さらに言えば、そうやって父親のアンソンと母親代わりのキョンジャが身を挺している姿に、佐藤(藤井隆)が猛烈に反応するうえでは、彼は親を知らずに育った身の上に設定されている必要性があったのだろうし、佐藤が身を挺して自分を逃がしてくれたことにアンソンが甘んじたのは、佐藤の行為がアンソンのためではなくチャンスのために、自分たちと同じように身を挺してくれていると受け取ったからだとは言えるものの、それ以上に、彼をヒロイックに描くうえで、黙秘貫徹での釈放というエピソードを仕込む必要があり、そのためには彼が身代わりに捕まって長く拘置されなくちゃいけない作劇上の必要性のほうが目立っていたような気がする。

 アンソンが、義に駆られて、彼ら三人共通の所期の目的である“チャンスのために大金を手に入れること”を見失っては、佐藤が身を挺した甲斐がなくなるという物語的必然性も充分あるのだけれども、それ以上に佐藤をヒロイックに描くうえでの必要性のほうが目立っていたように思うわけだ。しかし、それ以上に必要性からの設えとしての構造に大きな位置を占めていたのが、そのようにして皆が必死になってチャンスのために身を挺していた姿という、この物語の骨格の部分だったような気がする。佐藤に身代わりを負わせ、犯罪に手を染めてでも兄が手に入れようとし、自身は好色プロデューサーに身を任せてでも手に入れようとしたチャンスの治療費だったけれども、子として父ジンソン(ソン・チャンウィ)のことを思えば、その所期の目的を反故にするリスクを負っても、プロデューサーの横槍を見過ごすわけにはいかなかったという強度で彼女の切羽詰まった思いでの告白を描くうえでの必要性があったということなのだろう。

 そのように映ったから、この作品のそういった本筋のほうは、僕にはさほど響いてこなかったわけだが、心意気やよしのエンタテインメントだったように思う。
by ヤマ

'07. 6. 1. TOHOシネマズ4



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