『いつか読書する日』
監督 緒方 明


 読書を表題に掲げながらも、読むことよりもむしろ書き綴ることへの眼差しが印象深い作品だった。冒頭の原稿用紙に鉛筆書きでコツコツという音を中学三年生の大場美奈子が響かせている教室、五十歳の美奈子(田中裕子)がラジオ番組のDJに「雨の日と月曜日は」をリクエストする葉書に走らせていた万年筆、高梨容子(仁科亜季子)が最後に夫と美奈子に遺した言葉を水性ボールペンで口述筆記する介護士。いずれの筆記具もが大きく映し出され、今や書き綴るのに筆記具というものをさっぱり使わなくなって、美奈子の亡き母の同窓生でもある小説家の皆川敏子(渡辺美佐子)のように、専らワープロに頼るようになりつつも、かつてはそのいずれをも愛用した覚えのある僕にとっては、感慨深いものがあった。

 僕が小学低学年の頃、削らなくても使えるシャープペンシルは教室への持ち込みが禁じられていた。便利さの代償に手作業を疎かにする利器だったからなのか、当時は贅沢品で誰もが買ってもらえる生活状況にはなかったから、教室で貧富の格差が露わになることを懸念してのことだったのかは判らないが、数年前の携帯電話の教室持参禁止と同じように、とにかく禁じられていた。だから、教室の小机の天板の下にある中空が胴になって響くあのコツコツという音と光景には僕は馴染みがあって、滑らかに筆が進むときの音が生み出すリズムが懐かしく心地よい。万年筆は、学生時分に文芸サークルで詩や小説をものしていた頃に、そういうものはペン書きでないと書いた気にならないような妙な気取りの元に愛用していた覚えがある。同じ悪筆でも鉛筆書きとペン書きでは少しだけ大人っぽく見えたりするのが効用だった。水性ボールペンというのは、それからすれば、随分と後になってから出てきた筆記具で、従来のボールペン以上に滑らかで書きやすいけれども、ボールペンというもの自体に事務用筆記具のイメージが付きまとっていて、少々味気ないようなところがある。だから、五十歳の美奈子が、同じ町に住むかつての恋人高梨槐多(岸部一徳)への積年の想いを書き綴り、ポール・ウィリアムズの詞をリクエストするハガキに書くには水性ボールペンは相応しくないわけで、その対照を際立たせるためにも水性ボールペンの大写しが必要だったのだろう。

 そのポール・ウィリアムズ自身の歌声を僕は、何年ぶりで耳にしたのだろう。美奈子の恋と同様に本当に三十五年ぶりくらいになるのかもしれない。「雨の日と月曜日は」自体は既にスタンダード・ナンバーとして時々に耳にすることがあるから、最も代表的なカーペンターズの歌声だと聞き流したのかもしれないが、敢えて作詞者自身の歌声だったから、帰宅後、歌詞を確かめてみた。美奈子がまさに“詞”をリクエストしたのだと思えるほどに彼女の心境を映し出していて味わい深かった。さよなら みどりちゃんでの「14番目の月」にも匹敵するような巧みな選曲だ。

 そして、“綴る”と“想い”のうえに、更に“届ける”というキーワードが、美奈子の大切にしている仕事としての牛乳配達という形で強く印象づけられる。しかも坂道の多い街ゆえに“届ける作業の値打ちと苦労と甲斐”が視覚的に刻み込まれるから、それを丹念に描くことで届ける行為の美しさと掛け替えのなさというものが染み通ってくる。

 かように随所に技巧が凝らされていて、加えて演技巧者の存在感溢れるゆかしく切ないドラマが綴られるので、この作品がさまざまな触発を促してくれる佳作であるのは間違いないのだが、僕には、観念的図式と技巧が少々勝ちすぎているとの憾みが残った。美奈子と槐多が共に宿していた恋心の節度と頑固の有り様を美しいとは認めながらも、共感できる心情が自分のなかに見当たらなかったからなのかもしれない。三十余年も封印してきた熱情の開放のもたらす若々しいまでの初々しさは、まるで青春映画の肌触りと同様で、人生八十年時代の到来と言われるなかで、遂に五十歳の青春恋愛映画が誕生するようになったんだなぁとの感慨を覚えた。

 少々腑に落ちなかったのが、「あの朝、私には全てのことが判った」というような文字表記がされた容子の独白だ。彼女が牛乳を飲めなくなったなかで、牛乳好きではない槐多が取るのを止めようと言い出すことが、容子に対してそのような啓示を与えることにどうしてなるのかが、僕には解せなかった。それが女の直感というものなのだという形で済ますのは、原案・原作・脚本・監督ともに男なのだから少々胡散臭いのだが、物語の展開上の決定的なエピソードでもないようには思う。他方、美奈子世代との対照として、スーパーのレジ仲間の若いシングルマザーが生活上の欠落感の切実さからお安く繰り返す恋の寸描を挟むことで、恋と想いの味わい深さを手放していることを示唆していたところには、良し悪しということではなく頷くところがあった。

 それにしても、彼らが言うところの“恋愛上手の母親千代(鈴木砂羽)”と“女たらしの父親陽次(杉本哲太)”を持ってしまうと、あれほどまでに頑なになるのだろうか。決して街を出ない決意とか、とことん平凡に生きる決意だとかをとにかく貫くことが“だらしなさ”を排除するものとして、彼ら二人に強迫感のような形で巣くったのだとしたら、事故死した美奈子の母と槐多の父の犯した罪作りは、更に重たいものになるような気がした。


[参照メモ] 「雨の日と月曜日は」(ポール・ウィリアムズ作詞)
  Talkin' to myself and feelin' old
  Sometimes I'd like to quit
  Nothing ever seems to fit

  Hangin' around
  Nothing to do but frown
  Rainy Days and Mondays always get me down.

  What I've got they used to call the blues
  Nothin' is really wrong
  Feelin' like I don't belong

  Walkin' around
  Some kind of lonely clown
  Rainy Days and Mondays always get me down.

  Funny but it seems I always wind up here with you
  Nice to know somebody loves me
  Funny but it seems that it's the only thing to do
  Run and find the one who loves me.

  What I feel has come and gone before
  No need to talk it out
  We know what it's all about

  Hangin' around
  Nothing to do but frown
  Rainy Days and Mondays always get me down





推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20051007
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2005icinemaindex.html#anchor001298
by ヤマ

'06. 3. 4. 自由民権記念館ホール



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