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『ライフ・イズ・ミラクル』(Life Is A Miracle) | |||||
監督 エミール・クストリッツァ | |||||
郵便配達人のヴェーリョが語っていたように「戦争は、近づいているのは判っていても、来るときはいつも突然やってくる。」わけで、僕の住む高知でいつ来てもおかしくないと言われている南海大地震に対する備えがそうであるように、大半の庶民は、実際的な備えはろくにしていないまま渦中に放り込まれてしまうものだ。ボスニア側に住むセルビア人鉄道技師ルカ(スラブコ・スティマチ)とヤドランカの息子ミロシュ(ブク・コスティッチ)にしても、プロのサッカーチームからの声掛かりを楽しみにしていたら、戦争勃発で徴兵された挙げ句、敵側の捕虜の身になってしまう。ルカと旧知のアレクシチ大佐(ストリボール・クストリッツァ)が「誰の戦争なんだ? 少なくとも我々のではない。」と言うように、戦争が兵士や庶民のために行われることは皆無で、いつだって為政者の都合や彼らの行き掛かりでしかないのに、翻弄され、大きな犠牲を被るのは決まって庶民や兵士なのが、戦争というものだ。それは悲劇以外の何ものでもなく、ほとんどの戦争を扱った作品が、戦渦に翻弄された兵士や庶民の姿を悲壮もしくは悲惨に描くのが常なのだけれども、クストリッツァは持ち前の大らかさと奔放さで、むしろ庶民の逞しさと戦争という非常事態の生み出す滑稽さをダイナミックに描き出し、人生の不可思議とともに、命ある人間というものへの賛歌を高らかに謳いあげていた。 アレクシチ大佐の台詞にあった「戦争は人を狂わせる」という言葉は、数々の作品でも耳にしてきたものだが、ほとんどの場合それは、人間の内に潜む無慈悲なる残虐さや非情さの露呈に対して使われるのであって、ムスリムのセルビア人看護婦サバーハ(ナターシャ・ソラック)とルカが親子ほどに歳の離れた恋仲になることに向けられたりはしないのだが、それがとぼけた笑いを誘うとともに、考えてみれば、息子を戦場に駆り出されたヤドランカが流れ者の男と出奔したことや、サックス吹きだったフィリポヴィッチが軍務である食糧調達よりも石油と煙草の密輸に現を抜かした挙げ句、ケータイの混線のなかで繋がった外国の出会い系テレクラ嬢とのトンネルのなかでのテレホンセックス中にバズーカ砲で始末されてしまうに至ること、トモが娼婦とおぼしき女性たちを引き連れて機関車に寝そべり線路に沿って流した麻薬のようなものを舐めて興じるが如き狂態なども含めて、何もかも狂っていたわけだ。だが、戦争の狂気をこのような形で描出するのは、クストリッツァならではのものだという気がするし、冒頭でヴェーリョの訪ねた村人が飢えた熊に喰い殺されていたことと戦争で命を落とすこととでの“悲劇としての質の違い”を「知的に探っても何も明かされない」というのが、ルカの台詞に託されたクストリッツァのスタンスであって、すべからく人生は悲劇に包まれているが、タフに笑って生き延びようというのが、この映画に託された彼のメッセージであったように思う。だからこそ、戦争が終結し、砲撃音や銃声が止んで息子や妻が帰ってきても、元には戻らないことを悲劇として描くのではなく、元には戻らないことに希望を見出し得る奇蹟の到来を寓話的に描いたのだろうと思った。ところが、映画を観終えてから手元にあるチラシを読んでみたら「実際にボスニア紛争中、あるセルビア人男性の身におきたエピソードをもとにした…ラブストーリー」とあって、大いに驚いた。まこと“ライフ・イズ・ア・ミラクル”に他ならない。 だが、事実を元にしてはいても、クストリッツァの豊かな想像力が映画のテイストを寓話的なものにしているのは、間違いない。それは、『アリゾナ・ドリーム』で空を飛んでいた魚がベッドに変わって飛行していたからではなく、人の生に臨む彼の態度そのもののなかに潜んでいるような気がする。大きく豊かで大らかな映画の話法とイマジネーションで、人間や人生について語る彼の作風が寓話性を醸し出すのは、根底のところにそのような人生態度があるからだという気がしてならない。そんなふうに受け止めるうえで、今回『ライフ・イズ・ミラクル』を観ていて僕が大いにほくそ笑んだのは、これまでに覚えがないほどにクストリッツァが“女の尻”をフェティッシュに画面に捉えていたことだった。映画の序盤からボクシングのグローブをはめて女の尻をパンチングして法悦に浸る男とそれに陶然とし更なるパンチングを求めていた女性が登場するし、サバーハがルカの家の床の拭き掃除をする姿が尻を強調して長々と映し出され、その尻を観たヴェーリョが「うーん、素晴らしい」と呟く。トモの興じる遊びで、線路に沿って袋の粉を流す女性たちの姿も後ろから尻を強調して撮られていたし、果てには、立木の陰から尻だけを覗かせているサバーハの姿を敢えて尻を剥き出しにして映し出してもいた。 思うに、女の尻こそは、大きく豊かで美しくも猥雑な存在であり、時に奔放でもあって、まさしくクストリッツァ作品のテイストと重なってくるわけだ。きっと彼は、かねて「“女の尻”のような映画をこそ撮りたい」と願っていて、本作でそのことを表白したのではないかという気がする。 それにしても、サバーハを演じたナターシャ・ソラックが魅力的だった。素敵な笑顔と白い胸に魅了され、密かにしたためている「女優銘撰」にまたひとり新たなる作品&女優が加わった。 参照テクスト:掲示板談義編集採録 推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より http://dfn2011tyo.soragoto.net/dfn2005/Review/2005/2005_07_25_2.html 推薦テクスト:「FILM PLANET」より http://homepage3.nifty.com/filmplanet/recordZ.htm#zivotjecudo 推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2005lacinemaindex.html#anchor001305 | |||||
by ヤマ '05.12.24. 美術館ホール | |||||
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