『大統領の理髪師』(孝子洞理髪師)
監督 イム・チャンサン


 東京原発を観たとき、国のエネルギー政策を批判し、都行政や役人を揶揄風刺しているようでいて、その実、そういう状況を放置している選挙民たる都民国民を痛撃する視座を持った娯楽快作であることにいたく感心したものだったが、半世紀近く前の李承晩政権末期から四半世紀前の全斗煥政権誕生までの韓国の二十年間における政治権力と社会の状況をコミカルな味付けで描き、朴正煕政権下の厳しく権力的な時代を批判しつつ、その実、情けなくも健気な庶民の姿を有り体に綴った本作を観て、その巧みさに感心しつつも妙に居住まいの悪さを感じていた。

 チラシによると「韓国公開後、わずか1ヶ月で200万人を動員!」したとの大ヒット作なのだが、もしこれが自国の作品ではなく、外国人が韓国現代史を描いた作品だったら同様に支持されたのだろうか。僕にはそうは思えなくて、むしろ逆に“国辱ムービー”のような反発を招いたのではないかという気がしてならない。これが監督第一作だとのイム・チャンホンが自身の父親世代を描き、しかも現代史とはいえ、四半世紀以上という時間の経過があったからこそ、受け入れられているのであって、いかにも韓流の濃い味付けで父親世代の政治的無知と情けなさを有り体に戯画化して描いている映画を観て、涙し笑うことが赦されているのは、“豆腐一丁”の理髪師ソン・ハンモ(ソン・ガンホ)の子供や孫として自身が韓国の歴史を負っている人々だけではなかろうかという疎外感が、僕の感じた居住まいの悪さの主因だったように思う。


 漢字の天地の判別もできない無学さゆえではあっても、政治的な無知により李承晩政権の1960年の不正選挙に積極的に加担したり、クーデター政権が取って代われば、店の写真を掛け替えるだけで、現大統領からのお声掛かりには萎縮しつつも得意になって専属理髪師を務めたりするのだが、それらのことはともかく、下痢になった小学生の息子ナガン(イ・ジェウン)を反共のための思想狩りに自ら進んで差し出したりするハンモの“卑屈さ”には、どうにも苛立たしいものがある。そのことが招いたナガンの半身不随の後遺症は、小学生でも逮捕監禁し、拷問に掛けるという韓国情報部の常軌を逸した非情な厳しさによるものだが、そこまでの非情さは、ハンモにとっても大きな見込み違いで、彼の予期せぬものとして描かれていた。李承晩政権下においても朴正煕政権下においても、無知なる庶民がよかれと思ってすることが、尽く権力側に裏切られているわけだが、当の権力そのものに怒りを向けることを庶民がすることは決してない。床屋の従業員チンギ(リュ・スンス)が志願してベトナム戦争に赴いたような形での国外への脱出を試みるのがせいぜいなのだが、チンギの当ても外れ、戦地では米兵に軽んじられ、戦闘の惨状に晒され、帰国したら別人のようになっていた。それが韓国の民であり、父親世代であったことを描く痛烈さには緩みがなく、しかも馬鹿馬鹿しいほどに戯画化されているから、自身ないしは身内を笑う感覚に近いところに身を置かなければ、とても笑えたもんじゃない。しかし、僕はハンモの位置に自分の身を置くことができずにいたわけだ。

 虚仮にされているのは、むろん庶民だけではなく、韓国丸ごとだ。反共のための思想狩りを行ううえで情報部が全力を傾けている作戦が、下痢患者を追い回すことであるなどという図は、当時の思想弾圧を虚仮虚仮にして見せるものとして鮮やかと言えば、鮮やかだけれど、少々やり過ぎのような気がしなくもない。また、あれだけの強権を誇っていた朴政権が側近のKCIA部長による暗殺で呆気なく瓦解したことには諸々の要素があるはずなのだが、朴大統領(チョ・ヨンジン)を巡る大統領警護室長とKCIA部長の三角関係のもつれみたいなところ一点に、極端に矮小化して虚仮にしていたように思う。


 目に留まったのは、不正選挙や思想弾圧、拷問や戦争、暗殺など人間の暗部が露呈せずにはいられないような諸状況を取り出して綴りながらも、登場した人物に悪役なり悪人とおぼしき割当てが明確にされた韓国人が唯の一人もいなかったことだ。大統領警護室長やKCIA部長にしても“悪辣さ”ではなく“愚かしさ”が際立っており、最高権力者の朴大統領に至っては、むしろ謹厳ともいうべき品と格が付与されていた。このことが“誰かや何かを責める形での批判”というものを巧みに排除していて好感が持てるのだが、子どもを電気責めにする情報部員さえもユーモラスにコミカルに描くことには、少々違和感を覚えた。

 これらの“悪”不在のなか、徹頭徹尾強調されていたのが“愚”だったような気がする。僕には「人は往々にして悪と指摘される以上に愚と指摘されることに不快感を抱きやすいものだ」という思いがあるので、尚更に、韓国の歴史と人々に向けたこの作品の眼差しに単純に同調して笑うことができなくて居住まいの悪さを覚えたのだろう。もっとも僕が、人は“悪”より“愚”とされるほうが反発するものだという気がしているのは、悪に異様に鈍感になっていると思われる今の日本社会に汚染されているからなのかもしれない。

 思えば、かっこわるさや情けなさを身も蓋もない有り体でコミカルに綴った映画として、存外多くの人の支持を得ながらも、僕自身のなかでは居住まいの悪さのほうが気になったブリジット・ジョーンズの日記に馴染めず笑えなかったのも、やはり観ている僕自身の自嘲に繋げられる部分がそこになかったからだという気がする。そして、僕にとっては、それと似たようなことが『大統領の理髪師』に対しては生じて、『東京原発』には生じなかったということなのだろう。


 朴政権下で足腰の立たない子どもにされたナガンが、政権崩壊とともに覚束ないながらも歩みを取り戻し始める姿に、韓国の“民主化”というものが投影されているのは明白だが、奇跡のごとく訪れたそれは、例えば日本の“民主化”がGHQによってもたらされたようにして「外から与えられたもの」ではなく、父親世代のハンモの「強い願いと苦労によって授けられたもの」として作り手が受け止めている形になっていた。そして、学識のある利口さで獲得した“民主化”ではないとするエピソードが印象深い。ハンモはまた、新政権下で再び大統領の理髪師になることを求められると、もう懲り懲りと思いながら相も変わらず断ることのできない体たらくなのだが、最後には何とか、自身の選択として袋叩きにされて首になる手立てを講じることができるようになる。ボコボコにされた袋詰めで店の前の路上に捨て帰されたハンモが晴れやかだったのは、大統領の専属理髪師を辞められたこと以上に、力ある者に対して初めて敢然と自らの意思を表明できたことで得られた“誇り”のもたらした輝きのせいだったように思う。この二つのエピソードに託された父親世代への敬愛が印象深いからこそ、それまでの虚仮の限りが赦されてしまうのかもしれない。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20050407
by ヤマ

'05. 8.10. 高知シネプラザ2



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>