『バタフライ・エフェクト』(The Butterfly Effect)
監督 エリック・ブレス & J・マッキー・グラバー


 題名になっている“バタフライ・エフェクト”というのは、チラシによれば「初期条件のわずかな違いが、将来の結果に大きな差を生み出す、という意味のカオス理論の一つ。」なのだそうだ。確かに映画のなかでは、7歳と13歳のときの出来事に際してのエヴァン(アシュトン・カッチャー)の対応が変わることで、幼なじみ三人を含めた四人の人生が大きく変化していた。僕が面白いなと思ったのは、過去を少し書き換えることで未来を大きく変えてしまった物語として即座に想起される『バック・トゥ・ザ・フューチャー』との違いだった。
 科学の世紀とも言うべき20世紀に作られた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ではタイムマシンという機械によって科学の力で過去に遡ったのだが、21世紀の『バタフライ・エフェクト』では、人間の神秘的なサイコ・パワーとも言うべき異能によって過去の書き換えが行われる設定になっていた。去年観たデイ・アフター・トゥモロー』の日誌に「合理主義礼賛に伴う科学信仰とともに扉の開いた20世紀だったように思われるが、世紀末には科学が人類の幸福に寄与するものなのか否かにおいて、すっかり信用を失っていたように思う。」と綴ったことにも通じる、近年の反合理主義とも言うべき神秘志向という時代的なものが如実に反映されているような気がした。
 言わば、どちらも現実的には不可能だと思われるファンタジーなのだが、前者が明確にファンタジックな虚構世界の物語として描いているのに対して、後者は、観方によってはエヴァンの意識界のなかで起こった妄想として、必ずしも虚構世界ではないとも解せる面もある作りにしているのみならず、ある意味、過去の出来事の僅かな違いで生じ得る人生の変転というものを大真面目に描いていたところが大きな違いだと感じた。とりわけ幼時の受傷体験が人の生に残す痕跡というものについては、あざといまでの浮き彫りが施されていたような気がする。

 7歳時・13歳時・20歳時を軸に時間的交錯を幾度も繰り返した物語を一度観た記憶だけで辿るのは至難の業だが、いつものごとく一昼夜おいて自分のなかに残っているシーンを思い起こしつつ、再構成して反芻してみた。“ノンストップで展開する5つのクライマックス”との触れ込みは、僕の記憶では以下のとおりとなった。
 「@ケイリー自殺という結末→13歳(犬殺し):頬に傷 →Aケイリー売春婦という結末→7歳(地下撮影):性的虐待から救う →Bエヴァン入獄という結末→13歳(爆破悪戯):爆死から母子を救う →Cエヴァン障害者・母末期癌という結末→13歳(犬殺し):トミーの死亡 →→精神病院への入院(冒頭シーンに繋がる)→7歳(ケイリーとの出会い):邪険にする →Dレニーとの大学生活、ケイリーとの予期せぬ再会という結末」といったものだが、これには、いささか心許ないところもある。

 ケイリー(エイミー・スマート)の幼時における実父からの性的虐待は、それが書き換えられない限りは、6年後の事件を少々書き換えてみても、田舎町での冴えないウェイトレス稼業に燻りつつ人生への希望を見出せないままに過去の忌まわしき記憶を呼び覚まされて二十歳前で自殺してしまうか、心のみならず顔にも消えない傷を負った売春婦になるのかの違いでしかなかった。また、7歳の時に戻ってケイリーへの性的虐待を阻止しても、彼女の兄トミーへの父親の暴力が、彼に刑務所暮らしを余儀なくさせる粗暴で反社会的な人間に育て上げていて、決してエヴァンとケイリーを幸せにはしてくれなかった。しかし、そんなトミーでも、13歳の時に自らの言い出したダイナマイトによる悪質な悪戯が、予期しなかった殺人には至らず逆に咄嗟の母子救助に繋がり、同時に悪戯仲間エヴァンの身体障害を招くという不幸な事態との出会いを導く形に書き換えられれば、改悛とともに篤い宗教心に目覚めていたりもするわけだ。さすればこそ、犬を袋詰めにして油を掛けて焼き殺すような残忍で粗暴な嗜虐性にまでトミーを追い遣ったのは、父親から受けた暴力だけではなく、むしろ想定外の母子殺人を犯してしまった事件のほうが決定的であったことが偲ばれる。ケイリーの人生にしても、トミー(ウィリアム・スコット)の人生にしても、またレニー(エルデン・ヘンソン)の人生にしても、どう転がってしまうかを決めているのは当人ではなく、“バタフライ・エフェクト”であるというわけで、そういう人生観がアメリカ映画で印象づけられるのは興味深いことだと思った。人生を切り拓くのは自己実現の力だというアメリカン・ウェイとは対極にある人生観であるように感じたからだ。

 もう一つ、興味深かったのが過去の書き換えに臨むエヴァンの態度と葛藤の様相だった。それがエヴァンのパーソナリティだということなのか、異能自体に備わった制約だったのか不明であったが、エヴァンが過去の書き換えを試みるのは、常に自分以外の誰かのためであって、直接的に自分だけのために異能を発揮しようとすることはなかったわけだ。しかし、そこに自分の思惑外れに対する修正のような“私欲”が本音として潜んでいると、なかなかうまくいかない展開になっていた。
 とりわけ印象深いエピソードは、ケイリーを軸に幼馴染みたちの人生の幸を願うエヴァンが自身の不具を代償にそれを果たした顛末に際しては、ケイリーとレニーの仲に抑えがたい嫉妬を覚えつつも、今一度の過去の書き換えによる現在の改変を望まずに、自死しようとしたことだった。そのうえで、母親(メローラ・ウォルターズ)が末期癌で早死にしかかっている事態を見て、自分以外の皆を幸せにしていたわけではないと知り、改めて過去の書き換えに臨むエヴァンの姿には、彼なりの異能に対するモラルというものが窺えたわけだが、どこかしら異能の行使に対する口実が都合よく得られたように映るところもあり、まだまだ私欲の払拭には至っていないように描かれていたと思う。過去の修正を試みるなかで、幼いケイリーを性的虐待から救い、母子を爆死から救っても、現在が好転しなかったエヴァンが、今度は未だ救えていなかった犬の命を救おうとするのだが、私欲の払拭には至っていなかったせいなのか、案の定うまくはいかなかった。思惑違いのトミーの死というものを招いてしまい、二十歳現在ではレニーともども精神病院への収容という顛末になっていたわけだ。事ここに至って、都合延べ何十年分もの記憶を並行して脳に収めることで、既に限界以上の状態を迎えていたエヴァンが、助けを求めるレニーの呟きに、最後の賭けに挑むようにして、頼みの日記も失った状況で遂に一切の私欲を捨て去った心境で過去の修正を試みることで、ようやくにして四人組の誰もが著しい不幸には見舞われていない現在を得ていた。

 人の人生を左右しているのは当人の意思や能力を超えた存在としての何かであることを語り、真の虚心や自己犠牲といったものを問い掛け、賞揚しているように感じられるところに、非常に宗教色の強い倫理観が窺える作品だったように思う。さればこそ、僕はラストのエヴァンとケイリーの偶然の再会というものに、ある種の予感を込めたうえでの“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”といったハッピーエンドのニュアンスを受け止めている。

参照テクストお茶屋さんから教えてもらったパンフに掲載されていたストーリー構成

推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20050527
推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/The_Butterfly_Effect.htm
by ヤマ

'05. 7.18. 高知ピカデリー3



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