『きみに読む物語』(The Notebook)
監督 ニック・カサヴェテス


 認知症で記憶を失った愛妻のために、医者から不可能と言われた記憶の取り戻しの奇跡を試みる老夫の姿を描いた骨格自体は感動的で、老夫妻を演じたジェームズ・ガーナーとジーナ・ローランズの味わい豊かな演技もあいまって、そのことにはいささかの異存もないのだけれど、原題でもある“The Notebook”に綴られた肝心の物語のほうに少々違和感が拭いきれず、ちょっと据わりの悪い気分で眺めていたら、いささかガックリくるシーンに出くわした。

 いかにも老夫が老妻のために自分たちの馴れ初めを綴った物語であるかのようにして展開してきた物語の書き手が実は妻のほうだったということが、受け手に驚きを与えるような仕掛けとして構成された映画であったことが明らかになった場面だ。僕は、1940年から7年にわたるアリー(レイチェル・マクアダムス)とノア(ライアン・ゴズリング)の17歳から24歳までの恋物語について、こういうふうな綴り方を男がするわけがないというような違和感を拭いきれないまま、それを言っても始まらないからと許容して付き合っていたのに、実はアリーの綴った物語だったというのなら、いかにも老夫が綴ったような思わせぶりを施さずに、最初から明かしてくれれば、こんな据わりの悪い気分に見舞われることはなかったのに、と何だか気分を害したのだった。

 綴り手がアリーだったのなら、あの全く以て女性にとって都合のいい形での強引さと節度と辛抱強さを併せ持ったノアの造形ぶりも、彼女の記憶とイメージに鮮やかに残っている彼の姿として了解できるものになるし、母親の思惑によって封じられた365通の手紙という予期せぬ邪魔立てがあったにしても、7年ぶりのノアとの再会に赴いてロン(ジェームズ・マーズデン)との婚約破棄に至るアリーの熱情のいささか困ったちゃんぶりの綴り方にも了解が得られるのだが、ノアの側から自らを恋の勝利者として、臆面もなくあのような形で綴るとはどうにも思えなくて、違和感が拭いきれなかったのだ。あまりのことに途中で僕は、実は老女に物語を読んで聞かせているのはノアではなく、老境に至った“夫のロン”なのかもしれないとさえ勘繰ったほどだった。

 そして、アリーがノートに綴り残した物語だったことが判明すると同時に、それが自分の心を夫のもとに呼び戻すために読まれる物語として、愛する夫ノアに呼び掛ける形で残されていることに唖然とした気持ちに追い遣られた。アリーにその物語をノートに綴らせた動機は何だったのだろう。愛する夫の心のなかに既に自分の存在がなくなっていることに苦しむなかで、彼が悔恨とともに再び自分を求めてくれる気になったときには、その証としてこの物語を読み聞かせてほしいという願いを託して綴り残したというのなら了解できるし、そういう過程があって認知症に至った妻の回復を願っての読み聞かせの粘り強い繰り返しなら、それはそれで胸を打つものがあるのだが、それならオープニングの「私はどこにでもいる平凡な人生を歩んできた平凡な男。でも、ただ一つだけ誰にも負けなかったことがある。私には全身全霊を傾けて(字幕では「命がけで」)愛し続けた妻がいる。それだけで十分だ。」という老夫の独白が、あまりにも似つかわしくなくなってくる。まさか、アリーが認知症で記憶を喪失することを予め想定して綴り残したというわけでもあるまいに…などと、下手な驚きの仕掛けを施されたおかげで害した気分が、映画を観た後、つまらぬ妄想を呼び起こしたりもした。

 だが、老夫ノアが、おそらくは誰もが信じてくれないが故に他言することもないままに、自分独りだけが知っている奇跡の五分間が再び訪れた場面には大いに感銘を受けた。老優二人の演技に圧倒的なものがあり、このときばかりは害した気分を追い遣るだけのものを覚えたが、それで全て帳消しとなるまでには至らなかった。それでも、束の間取り戻した記憶とともに今から車で行こうと言い出す妻の言葉に、それは無理だよと少し水を差した瞬間、まるでそれがために水泡に帰するようにして、再び妻が記憶をなくした元の状態に戻っていくばかりかすっかり取り乱し始める姿を為す術もなく見つめているときのジェームズ・ガーナーの悲しみと情けなさに溢れた表情には忘れがたいものがあった。

 このほんの少し水を差した瞬間に水泡に帰す感じというのが、この作品のなかで、僕がある種の生々しさとしてリアリティを感じた唯一の場面だったような気がする。そして、この消失の仕方のリアリティによって、束の間の奇跡的な回復のリアリティが獲得されていたようにも感じる。また、このときのノアの表情が刻印されていたことによって、ラストショットで両方ともの手を繋いで旅立っていった二人の姿が胸に沁みてきたような気がする。そういう意味で、僕にとっては作品の全てを支えたジェームズ・ガーナーの表情であったとも言えるように思う。

推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20050209
by ヤマ

'05. 3.12. 松竹ピカデリー3



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

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