『若者たち』('67)、『若者はゆく』('69)、『若者の旗』('70)
監督 森川時久


 僕が若者たちを初めて観たのは、十八年前、26歳のときだったから、佐藤一家の五人兄弟で言えば、トラック運転手の次郎(橋本 功)の年頃だった。70年代後半から80年代にかけて青春期を過ごした僕たちは、世代的にはシラケ世代と呼ばれたものだが、それでも60年代的なコミュニケーション・スタイルに驚きと隔世の感を覚えながらも、自身の生き方を問われる思いがして、強く揺さぶられた記憶がある。製作時から三十五年の時を隔てて上映された会場に目立つのは往年の若者ばかりで、現在の若者の姿は乏しかったが、彼らの目にはどのように映ったのであろうか。

 『若者はゆく』『若者の旗』は今回初めて観たが、三部作を通覧してみると、やはり第一作が抜きん出ていたように思う。十八年前の日誌に「登場人物それぞれの抱えているものが単に個人のパーソナリティや個人的事情として映らずに、社会的に昇華されていて、しかも説得力がある」と書いた部分は、二作三作となると社会性をやや意識し過ぎた類型化が窺えて、第一作目のようなバランスのよさが人物造形に反映されてなかったような気がする。

 しかし、題材的には第一作を観ていればこその興味深さを誘う仕掛けにはなっていた。なまの現実と格闘し、ささやかで小市民的な夢を日々を生き抜く力の糧としている太郎(田中邦衛)の庇護のもとにある自覚を備えはした形で、在るべき姿の人間と社会を語って、兄を評価し、批判する三郎(山本 圭)は、第一作では基軸的な存在だったのだが、第二作では、彼自身が学生なりに直面する現実との格闘のなかで、限界も弱さも露呈していた。そこには、続編であるがゆえの作り手の狙いが窺えるような気がする。三作目で俄然クローズアップされてきていたのが、末っ子ぼん(松山政路[省二])だ。戦後生まれのドライな高度経済成長の時代の申し子という性格づけがされていた。太郎と三郎の間での激論などで問われていたのは、安易であれ、打算であれ、懸命であれ、生きる目的以上に生き方としての態度であったように思うのだが、時代の申し子としては、固執すべきものは、人生への態度ではなく目的であり、ぼんが言明するように“金とセックス”となるわけだ。

 三十余年前に、ぼんが多少なりの葛藤を滲ませつつも明言した、何のために生きるのかということに対して、全日制の教員を辞め、出版社に勤めながら夜学の教員もしていた三郎が、人が生きるのはそれだけじゃないだろうがと語り掛けるのだが、そこにいささか力のなさを感じた。そこには、言わば“それを言っちゃあ御仕舞いだ”的な、けっして否定できはしない現実であるからということ以上に、まがりなりにもそういうふうに口にできるところまで来てしまっていることに対する、引き戻りの難しさの前に脱力しているような感じがあった。三郎の語り掛けの力なさが当たっていたことが実証されているかのような三十余年を、僕自身も目撃して来ているように思う。

 特に近年の箍のはずれようは、必ずしもネガティヴな側面だけではないようにも思うけれども、想像を超える部分があるという点で、破格であることは間違いない。そのこと自体が全ていけないと感じているわけではない。それによって個々人が何を得、何を失っているのかによると思う。何事によらず、いつの時代にも、得上手、失い下手がいて、その逆も必ずいるとしたものだ。とにもかくにも隔世の感を免れることなく観ることのできない作品なのだが、並々ならない力は伝わってくる。一気に六時間近く観続けて、いささかも疲れず、ある種の興奮をもたらしてくれるのは、大したものだ。

 それにしても、主題歌空にまた陽が昇るときが映画の題名『若者たち』という名で歌い継がれるようになったのは、いつからのことなのだろう。
by ヤマ

'02.12.23. 文化プラザかるぽーと



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