『マイ・ネーム・イズ・ジョー』(My Nane Is Joe)
監督 ケン・ローチ


 やりきれなさが残るラストだと聞いて観たのだが、僕にはそうでもなかった。むしろ、これまでのケン・ローチ作品から比べても、ある種の救いが残るほうの作品だったように思う。しかし、それは甘い砂糖菓子のような気持ちの良さを与えてくれるものではない。あくまでケン・ローチらしく、苦みのある救いではあったが、だからこそリアリティのある救いなのだ。
 アルコール依存症に苦しむ男がただの一度の断酒に成功したことで、生まれ変わったように喜びと充実に満ちた幸せな日々を得るストーリーだったとしても、それを否定するものではないが、アルコール依存症の苦しみというものは、そんな生易しいものではないのだろうなと思う。克服したように見えても、決して生きやすくはない人生のなかで、どうしようもなくまた手を出し、台無しにしてしまったところから再び立ち向かわざるを得ない、生涯を通じた格闘のつらさを余儀なくされるものなのだろう。そういう意味では、治癒の対象とできる病ではなく、持病としてどうつきあっていくかという病なのだ、きっと。
 あれだけすっかり克服していたかのように見えたジョー(ピーター・ミュラン) でさえ、恋人セーラ(ルイーズ・グッドール)を失うという絶望に直面すると再び酒を手にするのだ。恐らくそういうものなのだろう。そして、断酒の成功とそれによって新たに獲得した自分に自信と手応えを感じていればいるほど、再び酒を手にしたことによって喪失するダメージもまた深くなるはずだ。再び酒に手を出すことを挫折と断ずるのはたやすいが、当人にとってはそれでどうなるものでもない。挫折を認めることで救われるのなら別だが、そういうわけではなく、挫折と出会わずにすむほど彼らは幸運ではない。むしろ、環境的にも精神的にも人一倍その挫折に晒されやすいことのほうが常なのだと思う。
 しかし、ジョーの甥リアムの葬儀の後、ジョーとセーラが寄り添って歩いているラスト・ショットには、リアムが自らの命を賭したことで、もしかしたら価値ある犠牲としてジョーを絶望と挫折の淵から引き戻したのかもしれないと思わせるものがあった。いつも逃げ回っているばかりで、ジョーに迷惑をかけていると嘆いていたヤク中リアムは、ジョーを絶望と挫折の淵に引き寄せた自らの不始末にけりをつけるとともに、その犠牲を払うことで彼に再び断酒へ向かわせる力を与えたとも言えるのだ。再び酒をあおって酩酊し、リアムの自殺をとどめられなかったことが、甥を死なせたという心の傷となると同時に、再び酒から抜け出そうとする力にもなったのだろうと思った。
 それにしても、昨年のカンヌで主演男優賞を受賞したというピーター・ミュランの演技と存在感は見事だった。ジョーとセーラが親密さを増していく過程でのにじみ出るような喜びの味わいに惹きつけられ、絶望の淵で再び酒をあおるときの迫力に息を飲まされた。そして、一枚売れ残ったという盗品のCD、ベートーベン『バイオリン協奏曲ニ長調作品61』の旋律のあまりに効果的な美しさにも打たれた。


推薦テクスト:「シネマの孤独」より
http://homepage1.nifty.com/sudara/kansou7.htm#myname
推薦テクスト:「たどぴょんのおすすめ映画ー♪」より
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/4787/c/g104.html
推薦テクスト:「こぐれ日記〈KOGURE Journal〉」より
http://www.arts-calendar.co.jp/KOGURE/My_name.html
by ヤマ

'99.11.20. 県立美術館ホール



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