美術館展覧会 ティンガティンガとリランガ展 関連企画 “アフリカ映画上映会”

@短篇『見上げてごらん、あの空を』(南アフリカ)['01] 監督 オイダ・スミットほか
A短篇『サッカーボール』(モザンビーク)['01] 監督 オーランド・メスキータ
B『イエローカード』(ジンバブエ)['00] 監督 ジョン・リバー
C『ケイタ グリオの遺産』(ブルキナファソ)['95] 監督 ダニ・クヤテ

 アフリカ映画と一口に言っても、当然ながら様々な国があるなかで僅かに四作品を観ても心細い限りだが、それでも地方都市に住んでいると一口に括ったアフリカ映画でも滅多に観ることができないので、今回の貴重な機会をとても嬉しく思った。Aプログラムとして並んだ@〜Bの三作品は、国は異なってもエイズとサッカーでクロスしているところが目を惹いた。

 南アフリカの短篇『見上げてごらん、あの空を』では、2010年には2600万人もの子供がエイズで親を失うとのクレジットが出た。母親を描いた絵を少年の上げる凧に貼り付けてもらって空を見上げる少女の姿を映し出した11分の作品だった。自然の景色の美しさが、如何ともしがたい現実の悲劇性を際立たせていた。

 モザンビークの短篇『サッカーボール』では、2000万個のコンドームが配布されるが、成人男性は400万人いるとのクレジットが出た。一人当たり5個というわけだ。エイズ問題のみならず、先進国とされる国々での出生率の低下と途上国とされる国々での人口増加がバース・コントロールという形での政策効果を上げるには至らないでいることも偲ばせて次の『イエローカード』にも繋がる作品だった。
 わずか5分の短篇だったとは思えない構成力と展開に目を瞠らされたのだが、唯でさえ行き渡らないコンドームが、貧しい子供たちのお手製のサッカーボールの芯になっている姿で政策の無力を鮮やかに切り取っている。膨らませたコンドームを芯にしてボールに固め上げるために巻き付ける糸に、干されていた毛糸のセーターが使われる。そして、そのボールがあらぬ方向に蹴りだされ、老婆の手元に転がって再びセーターに編み上げられて終わる繰り返しが、あたかもコンドーム普及政策のイタチごっこを思わせ、見事な出来栄えだ。

 これら二つの短篇映画は、ともに2002年にカンヌ映画祭で賞を得た作品のようだが、なるほどと思わされた。だが、さらに興味深かったのが、その後に上映されたジンバブエの『イエローカード』だ。高校生ながら町のサッカークラブと契約し、アフリカの一流プロを経て英国のマンチェスター・ユナイテッドの選手になることを夢みる、町のスター選手ティヤンが幼なじみの同級生リンダとひょんな運びの思わぬ一夜を過ごしたことで、未婚の父となり、本命の恋にもサッカー選手としての前途にも暗雲が覆い被さってくるという物語なのだが、キャンパスライフにしても、家族や友人の間の対人感覚にしても、アメリカ映画と見紛うような作品だった。話している言葉そのものも英語だったのだが、映画としての展開や語り口さえもアメリカ映画さながらで、事物や風景・登場人物がアメリカ人でないだけに過ぎないような印象に大いに驚いた。家族や周囲の理解と協力を得ての引き受けと乗り越えを暗示した成長物語として終わる明るさをも含め、アメリカン・テイストに満ち満ちているように感じた。三年半ほど前に“地中海映画祭”でレバノンの『西ベイルート』という作品を観たときに、レバノンのなかだけでできた作品ではないと知って大いに得心がいったことがあるのだが、この作品が純正ジンバブエ・スタッフによる映画なのかも妙に気になるところだ。もしそうなら、このアメリカナイズというのは相当なものだと思う。

 Aプログラムの三作品はDVDによるプロジェクター上映だったが、解像度があまり良くなかったのが残念だった。けれども、Bプログラムとして上映されたブルキナファソの『ケイタ グリオの遺産』は35mmのフィルム上映で、画面の美しさがやはり格段に違っていて思わず嬉しくなった。'95年の製作なのだが、映画作品としての充実度は最も高かったように思う。アフリカの地ワガドゥを王が統治するようになったのは“人望”を意味する“コナテ”と呼ばれる者の出現に由来し、ケイタ家の少年マボが、マンデの王マガ・コン・ファタの息子で伝説的な王スンジャタ・ケイタの末裔であることを伝える、ジェリバ翁の長い長い話にマボが魅せられ、教育熱心な母親シダンのもと、優等生だったにもかかわらず、学業そっちのけで先祖伝来の物語に没頭していく話だ。
 王家の語り部と称するジェリバの語るスンジャタは、暴れ水牛の化身でもある母とライオンにも化身する父王との凄絶な格闘と騙し討ちのような交接の果てに三年もの懐胎期間を経て生まれ、占術者の予言に従った先王の遺言により長じて王位を継承するまで、立ち上がることも歩くことも一切できなかったにもかかわらず、コナテとなった人物だというわけだ。珍妙なようでいて、人間のポテンシャルというものを侮らせない、なかなか有意な物語ではないか。今やアフリカにおいても確実に失われつつあるであろう民族の歴史の伝承問題を窺わせるとともに、それが口伝によるもので、学術的な歴史観とは全く異なる神話的な物語であることや、また、それこそが本来は歴史として受け継がれるべきものであることを雄弁に語っていたところが出色だった。
 マボの通う学校の授業として、240÷3といった程度の算数の時間とともに、新大陸の発見が誰でいつだったのかという授業の場面が敢えて登場していたところに、作り手の思いが確信的に窺えるような気がした。継承すべきアフリカの歴史よりもアメリカの歴史を教える授業を皮肉るとともに、人類の起源の発祥の地とも言われるアフリカ大陸に生を受けた者として、今世界を席巻しているアメリカ合衆国がわずかに1492年からの歴史しかないことに言及しておきたかったのだろう。太古の昔の話から始まる映画の冒頭との対照が明らかだった。そして、マボの学校の先生フォファナに名前の由来を訊ねて、そんなことさえ知らない者が子供に教える立場にあることを嘆息するジェリバの姿も描かれていた。
 また、都会に暮らす現代女性シダンが、ジェリバ翁をマボから引き離そうとはしない夫ケイタに不満と怒りを示し始めるのに、それでも語り部ジェリバを尊重するケイタの姿がなかなか微妙な印象を残していた。ジェリバのような伝統的な生き方は最早できず、都会生活にしっかり馴染みつつも、古くから伝わる因習をもないがしろには決してできないし、その価値を知ってはいるけれども、妻には伝えられないでいる悩ましさが滲み出ていたように思う。語り口もスタイルも先の『イエローカード』とは対照的に、アメリカ映画の影がほとんど感じられない。一口にアフリカ映画と言っても様々な作品があるのは当然のことだが、いろいろ観てみたい興味を掻き立てられた。また観られる機会を得たいものだ。


参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
http://kochi-bunkazaidan.or.jp/~museum/tingatinga/african_films.htm

by ヤマ

'04. 8.28. 県立美術館ホール



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