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『ブラザーフッド』(Taegukgi) | |||||
監督 カン・ジェギュ | |||||
半世紀前の朝鮮戦争を舞台に、国家体制のイデオロギー対決のせいで辛酸をなめる庶民の姿を描いて痛烈な作品だった。映画としては、ドラマの展開や人物描写に少々違和感の残る部分がいくつもあったり、演出過剰が気に障ったりしたのだが、とにもかくにも力技で見せきるパワーがあった。こういう作品を観ると、つくづく、人間を戦場に送るということが如何に人倫にもとる行為であるかが身に沁みる。 戦闘員たる兵士と非戦闘員たる民衆とを問わず、戦禍のもたらす厄災の惨状の凄まじさを目の当たりにすると、“いかなる大義や名分を冠しようとも、戦争というものは人間性をとことん痛めつける絶対悪である”と考えるほかないとの思いを受け手に抱かせるのに充分なパワーが作品に宿っていたような気がする。まして朝鮮戦争は、「日帝と戦うのはまだしも、なぜイデオロギーなんかのために」との台詞が敢えて設えられていたように、同朋間での戦いだったから、戦い殺し合うことで剥き出しの憎悪へと駆り立てられていくさまが殊更に悲劇的だし、人々をそのような状況に向かわせた国家指導者の罪深さが一層際立つ。 それにしても戦争が起こると、前線にも出ようとしないくせに暴力的な非常事態に乗じて強権を行使したがる輩が必ず現れるのはどうしてなんだろう。『コールド・マウンテン』を観たときにも、サリーの夫と子供を惨殺し、エイダを苦しめたティーグ一派が最も卑劣極まりなく感じられ、腹立たしかったものだが、この作品でもジンテ(チャン・ドンゴン)の許婚ヨンシン(イ・ウンジュ)を殺したアカ狩り自警団のような連中がのさばっていた。その事件と自分が命懸けで守ろうとした弟ジンソク(ウォンビン)を自国軍が焼き殺したと錯覚することがなければ、ジンテが北鮮側に立って武功を轟かせることになるような心境にはならなかったはずで、韓国軍の兵士として最高位の勲章を得るに至る勇名を馳せる過程でジンソクの心胆を寒くさせるほどに共産主義への敵意を剥き出しにするようになっていたことにしても、激烈な戦闘を遮二無二なって貫くうえで自ら駆り立てていった窮地に過ぎないことを、この作品は際立たせていた。つまり、イデオロギーのために戦っているように見えても決してそうではなく、激しい愛か憎しみの感情によってしか、人は心の窮地を耐え抜けないということだ。イデオロギーなど何の支えにもならないし、百害あって露ほどの益もないというのが作り手の思いであることが窺えた。 そして、ジンソクが兄ジンテのようにならないのは、戦場に送り込まれてもなおジンテのような心理的窮地に立つことがないからで、通常は常軌を逸脱せずに踏み止まる冷静さが肯定的に描かれることのほうが多いように思われるのだが、この作品ではジンテの負った悲劇性を高めるためか、必ずしもそうとは言えない側面が強調される形で描かれていた。むしろ、観ている側にある種の苛立ちを誘いかねない部分がある。このジンソクの描き方は、両者の心理的窮地の有り様を対照的に浮かび上がらせることとそのうえで常軌を逸脱する側を支持させることにおいては効果的であったかもしれないが、映画作品として受け手に与える印象についての功罪で言えば、罪のほうが大きくなるような過剰さがあって、後のジンソクの気づきと悔悛の情の迸りを描いて見せても、受け手がスッキリするまでには至らないほどのものであるように感じた。 推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2004/2004_07_05.html 推薦テクスト:「映画通信」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20040630 推薦テクスト:「シネマ・チリペーパー」より http://homepage3.nifty.com/ccp/hihyou/brosfood.html | |||||
by ヤマ '04. 8. 9. TOHOシネマズ1 | |||||
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