『アフガン零年』(Osama)
監督 セディク・バルマク


 パキスタンに亡命していたアフガン人監督による作品だけあって、全編に沸沸とたぎっているように感じられたタリバン政権への憤りが最も印象深かった。チラシによれば、亡命中に読んだ「学校へ行くために髪を切り、少年になったアフガンの少女」という新聞記事が元になって監督自身が執筆した脚本のようだが、少女(マリナ・ゴルバハーリ)は学校に行くためではなく、戦争で父も兄も失い、男手を失って三世代の女だけの家族になった苦境を支えるべく働きに出るため、母親に強いられて少年を装う話になっていた。
 映画に登場したようなプラカードを掲げた女性集団による抗議行動が、タリバン政権下で実際にあり得たのかどうかは怪しい気がするのだが、映画で最も強調されていたのは、女性の人権が全くないがしろにされているタリバン政権下の非人道的な社会構造だったように思う。年金制度がどうこうだという次元からは及びもつかないレベルでの生活の先行きが不安に満ちている社会にあっても、現に人間は存在しているし、生きている。賃金が支払われるかどうか不確かでも、とにかく職を求めざるを得ない劣悪な状況にあって、さらに女性は、働くどころか身内の男性を伴わずに外出することさえ禁じられている有様だ。しかし、国民のために男手を失った女性だけの家族に支援の手を差し伸べたりするようなことを国がするはずもなく、戒律による強権的な取締りしか眼中にない。そのタリバン政権ですら、政権として機能していたときは、悪しきとはいえまだしも秩序が保たれていたが、政権が潰された後はさらに不安定で危険な状況になっているなどという話を聞いたりすると、一体どんな社会状況になっているのだろうかと想像も及ばない。だが、アフガンがどれだけ荒廃していようと、たくさんの人間がそこで生きているのは間違いなく、そして、どんな世の中になっても、この作品で少女を庇おうとしていた香焚き屋稼業の少年のような存在の絶えることがないのも人間の世の中であるとは思う。だが、そういう人々を守り救うことにいささかも熱心ではないのが国というものを司っている権力者たちだ。
 これは何もタリバン政権が非民主的だからそうなのではない。非民主的だから際立っているだけのことだ。権力者たちが自ら自国の弱者たちに思いを致すものではないことは、何も非民主的な社会に限らないように思う。民主主義を標榜する国であっても本質的には同じようなものだろう。ただ社会システムとして、あまりに民衆をないがしろにすることが権力の維持を困難にする仕組みが講じられているに過ぎない。その仕組みが機能しなくなれば、権力者たちが何をし始めるのかは古今東西見渡しても大差ないというのが人間の限界であり、権力というものの恐ろしさだという気がする。
 そして、恐ろしいのは、権力というものは、何も国家権力だけではないということだ。少年を装ったとの罪で危うく処刑されかけた少女が命拾いしたのは、解放されたからではなく、とある老人が妻として所望したからだった。12歳の少女の命を救うために所望したのではなく、数ある妻の新たな一人として連れ帰り、ごく当然のようにして寝所に招くわけだ。少女の望むところではないのは明らかで、紛れもなく強権力行使に他ならない。こういう権力行使もまた、民主的な社会では露骨には許されていないが、民主的とされる社会でも本質的には同じようなものが男権に限らず、あちこちに蔓延っているように思う。権力の本質にかかる問題は、社会の問題以上に人間自身の問題だからだ。そういう意味で、決して他国の遠い話でもないという普遍性を孕んで、イラン映画風のドキュメントな肌触りで生々しく綴られたこの作品には、少々気の重さを残すようなところがなくもない。
 この日の上映会は、経済産業省のデジタルコンテンツ地域上映事業実証試験の一環として(財)デジタルコンテンツ協会が実施している「デジタル de みんなのムービープロジェクト」を利用して行われたようだ。『ウィニング・パス』を観たときも思ったが、フィルム映写とは異なる“映像のキレの悪さ”が若干残っているものの、大半の観客には気づかれないレベルまで解像度が上がっている。機材費も映写技師料も要しないということで、オフシアター上映に利用されることが今後増えてきそうな気がした。

推薦テクスト:「my jazz life in Hong Kong」より
http://home.netvigator.com/~kaorii/asi/osama.htm
by ヤマ

'04. 7.12. 県民文化ホール・グリーン



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