『ウィニング・パス』
監督 中田新一


 ごく普通の高校生健太(松山ケンイチ)が突如見舞われた障害に挫けることなく、健気に生きる姿を描いた物語と言うよりも、むしろ障害に見舞われたことで多くの気づきを得、成長するビルドゥングス・ロマンの趣が強いばかりか、事故に見舞われた不運が、本人のみならず家族や友人たちをも成長させる得がたい機会を与えたようにさえ描かれていた。それが映画作品として、作り物めいた綺麗事やら障害者理解への啓発を高所から促す説教臭さのほうに堕していくことから逃れ得たのは、障害者への理解を促すこと以上に、障害者が自覚しなければならないことへの言及がより印象深く描かれていたからだろう。

 バリアフリー住宅への改造費やら何やらで家計が逼迫することで健太の妹(堀北真希)が私立校から公立校への変更を余儀なくされることについて、自分が犠牲を被ることへの憤りを露わにする経過を踏まえたうえで、兄の「障害を負った者の気持ちがお前に分かるか!」との言葉に対して真っ向から「障害者の兄を持った妹の気持ちが兄さんに分かるっていうの!」と返す場面や健太の父(矢崎滋)が「なんで小便を失敗して迷惑を掛けたことを皆に謝れないんだ?」と、障害を負った者自身が自分の障害を特別視していることへの気づきを促す場面は重要だ。
 だが、それ以上に重要なのは、この作品が身体障害というハンディを負った状況を物語的主題とする以上に、生に輝きを得るうえで最も大切なことが“甲斐と手応え”であるという普遍性の高い主題を浮かび上がらせる道具立てとして身体障害という状況を取り上げているにすぎないという印象の筆致を保っていたことだという気がする。親子関係や友人関係が好転あるいは深化したのは“甲斐と手応え”の獲得によるもので、健太が前向きに生きる手応えや自身の存在の甲斐を得たのも、車椅子バスケとの出会いやリストラ自殺の未遂による障害者(ベンガル)から得た謝辞のみならず、障害を負った自分との関わりによって周囲の人々が変化し成長していることに気づきを得たからなのだろう。

 ただ、この際言及しておきたいと気がはやったせいか、障害者の恋愛問題や性生活を含めた実子を得ることを願う結婚生活の問題、公共施設たる学校のユニバーサル・デザインの問題、バリアフリー住宅の問題、無知よりも却って根深いボランティア従事者による差別意識の問題やいわゆる“権威なき父親”の問題など、あまりに多くの問題を断片的に取り込んだことがいささか散漫な印象を与えるとともに、ややスポンサー配慮的な注文施工に通じるようなものを感じさせたりもした。特に、障害者の兄を持ったことで妹がイジメを受けたらしいことに激怒し、健太が殴りこみに行った挙句、派手な喧嘩の果てに大の字になって笑い合うエピソードは、いささか取ってつけたような印象が拭えず、むしろないほうがよかったような気がした。

 それにしても、いかにも定番とはいえ、恋とスポーツと友情というのは、やっぱり青春物語に似合った道具立てだ。雨降って地固まるがごとく家族の絆を確かめ合い、得がたい“甲斐と手応え”をそれぞれが感じ取っている姿を見るのは気持ちがいい。主人公が最後に投じたロング・シュートをやすやすとは決めさせなかった展開は、その直後の恋のウィニング・ロング・パスを引き立てるためのものとはいえ、常套的展開を踏まえながらも、それに流されまいとする作り手の工夫と意志の表れとも見え、好ましく映った。試みることの勇気を示唆した食堂の親父(柄本明)の言葉に結果的に沿う方向で歩みを始めた健太と香織に声援を送りたくなる作品だ。香織を演じた佐藤めぐみの笑顔がとても魅力的で素敵だった。

by ヤマ

'04. 4.25. 福祉交流プラザ



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