『音のない世界で』(Le Pays Des Sourds)
監督 ニコラ・フィリベール


 オープニングからして、譜面台を前にした手話の四重奏を繰広げるという圧倒的な場面で始まるこの作品は、これまで聾唖の世界を取り上げた多くの作品が果たし得なかった、聾者の豊かな文化と世界を掬い上げることに成功している。それは、端的に言えば、この作品が聾者の“問題”を取り上げたのではなくて、聾者の“世界”を描き出そうとしているからだ。そして、そこには健常者の知らない、ある種、羨望さえ抱かせるような豊かな世界が捉えられている。

 例えば、音楽といえば、聾者には最も縁のない世界だと思っているのが普通であるのに、冒頭の手話による四重奏は、音は殆どしないにもかかわらず、アンサンブルという点では音楽の演奏における味わいの醍醐味とも言うべきものの本質を確かにつかんでいるということを驚きや感銘とともに教えてくれる。それは、彼らの演奏が舞踊や舞踏にも通じる身体表現としての美をアーティスティックに実現していながら、音楽的な膨らみと共振性を獲得しており、身体表現を越えるものを伝えてくれるからだろう。彼らの手の動きの美しさは、まるで名ヴァイオリニストのボウイングの美しさと同じ様に見えるのである。また、愛くるしいフローラン少年や手話講座の講師ジャン=クロード・プーラン氏の生きていることへの確かさに対する自信にあふれた表情の豊かさには、普通に暮している健常者にもなかなか見られない生き生きとした力強さがあり、健気などという言い方をするとこちらが恥ずかしくなるくらい輝きに満ちている。

 実際、プーラン氏は、娘さんが聾者に生れなかったことに対して、まるで健常者が聾者の子供を持って「この子の耳が聞こえたらいいのに」と思うように、「娘が聾者に生れなかったことを残念に思う。もちろん、そのことで娘に対する愛情が変わるものではないけれどね。」と事もなげに語る。音声言語を持つ人々にとって、言葉の違いが国際交流のうえで大きな問題となることに比べ、手話は各国で違うにもかかわらず、二日もあれば充分に話し合うことができるようになるのだと誇らしげに語られると、敬服しないではいられない。兄弟両親ほか親類縁者みんなが聾者だという男の人が登場し、生きていくうえでの不自由さなんて全くないと明快に語る時、音声言語を持っていないことの不自由さが、まるで高知で生活してて英語を喋れないことを不自由かどうか聞かれているのと変わらないんじゃないかとさえ思えてしまうのである。実際問題、プーラン氏は、聾者の発語訓練や読唇術は、バイリンガル教育のようなものだと言い切る。文化の根幹にあるのが言語体系であるという点では、「音のない世界」との出会いというのは、健常者にとって、チラシにもあるように、まさしく異文化との出会いなのであって、障害者とか気の毒な人たちとの出会いといったものではないのである。

 そういう意味において、かつて聾学校で発語訓練のために手話が禁じられ、手を縛られたというエピソードなどを知ると、まるで帝国主義下の植民地政策で征服者の言語が強要されたのと変わらない強者の論理だということに気づかされる。同時に、健常者にとって手話の持つ意味も明らかになってくる。

 ドキュメンタリー映画の持つ力は、こういった日常生活のなかではなかなか獲得しにくい新たな視点というものを説得力のある形で提起してくれるところにあるのだが、そういう点で強く印象に残った言葉としてもう一つ挙げておこう。若い女性が語ったものだが、幼い頃、聾学校で寮生活をおくっている時、先生たちを含めて大人はみんな耳の聞こえる人たちばかりで、耳の聞こえない者は二十歳になるまでも生きられないものだと思っていたという言葉である。これなどは、証言として提起されなければ、第三者においては、かなり想像力の豊かな人でもなかなか気づかないことだろうと思う。彼女は、アメリカ旅行をした際に、空港で大人の聾唖者の団体を見掛けることがあって、その日から人生が変わったという。重い言葉だと思った。
by ヤマ

'95.10.21. 県民文化ホール・グリーン



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