『負け犬の遠吠え』を読んで
酒井順子 著<講談社>


 儒教と負け犬を読んだとき、一世を風靡した『負け犬の遠吠え』は未読ながら、流行り言葉にもなった“負け犬”が世間で専ら自嘲的な蔑視ニュアンスで使われていたことに対し、著者自身はレトリックとしての装いはそのように施しながらも内心は強い自負心を秘めていて、遠吠えなどと言いながら、確信的な異議申し立てをしているのだろうと勝手な想像をしていた。ところが、縁あって本書を読んでみると、かなり本気で自嘲的に捉えているらしいことが判って少々意外な気がした。と綴っていたが、そのときの宿題とも言える本書を読んで、その屈託の深さに改めて驚いた。

 あとがきともいうべき「おわりに」として、その、常にどこかに敗北者を作り出さなければ勝利者たり得ないという仕組みに、実に不毛な感じを覚えたのです。…ここまで負け犬という単語を連呼してみると、勝ちだの負けだのということが、ほとほとどうでもいいことのように思えてくるものです。(P276)と記していたのとは裏腹に、著者が本当に奥深いところまで“優勝劣敗”“序列”というものさしに囚われているとともに、その勝ち負けというものが周囲から認めてもらいたくてしょうがない(P233)の一点に係っている覚束なさにある種の痛々しさを拭えない気がした。だからこそ、「私は、結婚『できない』のではなく、結婚『していない』だけなのだ。しかし世間の人達は、私も『できない』人と同じにしか見ない!」とイラつく。そして、「その誤解をはらすには、一度結婚してみせるしか無いのであろうか……」と悩むのです(P241)などという本末転倒した発想に結びつくのだろう。すなわち結婚できていないことに不満なのではなく、結婚できていないと“見られる”ことが不満で仕方がないということらしい。

 どうして、そこまで他人の視線ばかりが気になるのだろう。著者は負け犬の頭のなかには、「自分達、つまりメスの負け犬はまともな人が多いが、結婚経験の無いオスの負け犬は何らかの決定的な欠陥を持つ人が多い」という偏見があるのです。だからこそ、離婚経験者の男性はモテるのでしょう。(P166)などと記しているが、僕などからすれば、他者からの視線への囚われと自意識の葛藤の根深さに病的なまでのものが感じられ、さすがに“決定的な欠陥”とまでは思わないものの、とても“まとも”と強弁できるものではないような気がした。三万円もするTシャツを普段に着ていても、冠婚葬祭になると弱い、負け犬。普段はユニクロのTシャツでも、冠婚葬祭では俄然、存在感を発揮する勝ち犬。負け犬は常に個人として存在しているので、なんでもない平日の服装にお金をかけるのですが、勝ち犬は個人としてではなく、「家」の人間として行動している。普段はどんな安い服を着ていても、喪服の生地の質では、負け犬を凌駕するのです(P95)などといった比較の持ち出しには些か呆れた。

 著者は高学歴で高収入、なおかつ見た目も悪くないというメス負け犬がぞろぞろといるのに対して、高学歴高収入で見た目も悪くないというオス負け犬は、ほとんどいない現象が生じる理由として学歴、収入、身長といった条件が、たとえほんの少しであっても自分より「低」である女性と一緒にいる方が、男性は安心する。逆もまた真ということで、自分よりも様々な面において「高」な男性を、女性は好む。すると結果的に、全般的に「高」な女性と、全般的に「低」な男性は、相手がいなくて余る、ということになります(P58)としているが、優劣や序列に対する異様なまでの敏感さは、彼女たちの世代的特徴なのか性差要素が大きいのか、或いは、それこそ負け犬のメンタリティの特徴なのか、俄かには測りがたいものの、僕には最後の要素が最も強いような気がした。

 更に言うならば、本書に示された負け犬がなぜ、異性との出会い方にこだわるかといったら、私達は「モテる人が偉い」という価値観の中で、生きてきたからなのです。…「羨ましい」とか「あの夫だったら私も結婚してもいい」と思えるような夫婦は周囲に皆無なのだけれど、それでも「結婚したいかもー」と思うのは、一人の異性にとても深く愛されたという証拠が欲しいから、という部分があるのではないか。つまりそれは、どこの学校を出たかと同じ、心の拠り所として持っておきたい履歴の一つなのです。…ただ結婚がしたいのではない。相手から強く求められた結果として、たまたまそこに結婚があったという形を取りたい(P105)といったメンタリティが、狭義には、未婚、子ナシ、三十代以上の女性のことを示します。この中で最も重要視されるのは「現在、結婚していない」という条件ですので、離婚して今は独身という人も、もちろん負け犬。二十代だけどバリバリ負け犬体質とか、結婚経験の無いシングルマザーといった立場の女性も、広義では負け犬に入ります。つまりまぁ、いわゆる普通の家庭というものを築いていない人を、負け犬と呼ぶわけです(P7)という定義の“負け犬”のメンタリティなのかと言えば、僕は必ずしもそうではないのではないかという気がしてならないが、実際のところはどうなのだろう。

 そんななかで負け犬からすると、勝ち犬というのは人生のある時点で一回、結婚という目標を達成するために、恥を捨てた人に見えるのです。それはつまり、狙いを定めた男性の前で酔ったフリをしたり、「お見合いしろって親から言われているの」とか「妊娠したかもしれない」とか「料理が得意なの」などと嘘をついてみたり、泣き落としをしたり、一オクターブ高い声で話したり、経歴詐称したり、一人では生きていけないフリをしたり、それなのに婚約が整った後は急に強権を発揮しだしたり。負け犬には、それらの行為が恥ずかしくてできません。友人知人が、それらの手練手管を使っているのを見ると、いたたまれない気分になってしまうのです。負け犬が手練手管だと思っているものは、しかし勝ち犬を目指す人にとっては、“生きていくためには必ず踏まねばならぬ踏絵”です。「そんなもの、どのツラ下げて踏めというのだ」と負け犬が頑なに言い張る間、勝ち犬を目指す人は軽々と踏絵を踏んで、勝ち犬の国へと入る。そればかりか負け犬街道を順調に歩んできたと思われていた人も、ある日突然改心して踏絵を踏み、ヒラリと方向転換することもある。「恥を知れ!」と残された負け犬は叫んでみますが、既に勝ち犬となった人達に、その叫びが聞こえるわけがありません。(P25)などと言うのは、まさしく本書のタイトルどおり“遠吠え”であり、『負け犬の遠吠え』というタイトルは直球そのものであって、僕が「世間で専ら自嘲的な蔑視ニュアンスで使われていたことに対し、著者自身はレトリックとしての装いはそのように施しながらも内心は強い自負心を秘めていて、遠吠えなどと言いながら、確信的な異議申し立てをしているのだろう」と思っていたものとは掛け離れていたように思う。

 とはいえ、負け犬は都市文化発展の主なる担い手(P70)との自負は、そのとおりだと思うし、負け犬は、生きることに汲々としなくてもいい生き物(P70)だから、珍しい魚が寿司屋で食べられるのも、決してメジャーヒットはしないであろうヨーロッパの小国で作られた地味な映画が見られるのも、深夜においしいフレッシュハーブティが飲めるのも、負け犬が都市文化を底支えしている(P70)ことによるというのには納得だった。そして、そればかりではありません。負け犬は慈善事業も、嫌いではないのです。子供を産んでいない罪悪感を埋めるためか、はたまた暇なだけか、ちょっとしたボランティアをしたり、NPOを立ち上げてみたりする。負け犬は決して贅沢な文化や隙間文化だけを享受しているわけではなく、生活に汲々としている人々には気づかない、そしてできないことを担っているのです(P70)との言い分にも首肯するところはあるが、そのいずれにしても、前述した“他人の視線ばかり気にした”うえでの“周囲から認めてもらいたくてしょうがない”思いの発露のような気がした。

 思いがけなく興味深く感じたのは「負け犬と依存症(アディクション)」の項で、三十代半ばになり、周りの負け犬を見ていて、ふと気づくことがありました。それは、“何だかこの人達って、やたらと歌舞伎を見ているなァ”ということ。…独身女性達は、歌舞伎を観、鳥獣戯画の茶碗を集め、香港映画スターのおっかけをし、競馬に夢中になる。働く独身女性のアディクション対象としてもう一つ顕著なものに、「踊り」があります。フラメンコにフラダンス、サルサにベリーダンスにクラシックバレエ等、やけに負け犬たちは踊っていて、私もしばしば素人踊りの発表会に誘われることがある。そういえばスポーツジムに行くと、エアロビクスの最前列に陣取っているのは常に同じ顔触れであり、その人達は決して若くはないがおばさんと言うには忍びない年齢の女性達だということに私は気づきます(P115)と記されていた部分だった。返す返すも「負け犬は都市文化発展の主なる担い手」であるとともに、作り出された“流行”なるものに見事に乗っていたのだと今更ながらに「私は気づきます」だった。そして、勝ち犬が五十代以降になって初めて体験できることを、二十代からやっている。だからこそ四十代を迎えるより前に、既に恬淡の域に達してしまうのです。「最近、松の美しさがわかるようになってきた」とふと漏らした三十八歳・負け犬の言葉に、私はおおいにウケると同時に、ちょっとした哀しさも感じるのでした(P137)などと記しつつも、枯れられないからこそアンチエイジングに汲々としているように思われる彼女たちが、本当に哀れな存在であるように思えてきた。


参照テクスト:中村うさぎ 著『私という病』読書感想文
by ヤマ

'10.10.25. 講談社単行本



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