『儒教と負け犬』を読んで
酒井順子 著<講談社>


 一世を風靡した負け犬の遠吠えは未読ながら、流行り言葉にもなった“負け犬”が世間で専ら自嘲的な蔑視ニュアンスで使われていたことに対し、著者自身はレトリックとしての装いはそのように施しながらも内心は強い自負心を秘めていて、遠吠えなどと言いながら、確信的な異議申し立てをしているのだろうと勝手な想像をしていた。ところが、縁あって本書を読んでみると、かなり本気で自嘲的に捉えているらしいことが判って少々意外な気がした。

 それはともかく、前書きに当たる「負け犬の旅、始まる」を読んで我が国において少子化、晩婚化という問題がここまで深刻になっている背景には、儒教的価値観がしっかりと染み込んでいる土壌に、近代的男女平等思想を覆いかぶせようとしたからなのではないか(P15)とまず来たときに、男尊女卑的な精神文化ということでは、儒教以上にイスラム文化圏のほうが強烈な気がするし、儒教的価値観のほうの問題よりも近代的男女平等思想の取り入れ方のほうにむしろ大きな問題があって、平等というものをどう捉えるかを曖昧におろそかにしたまま平等思想を社会化しようとした過程で生じた、男女問題に限らない平等観の歪が、男女平等という問題においても影を差しているというのが本当のところではないかという気がした。つまり、儒教的要素よりも後段の要素のほうが強く、さらに言えば、僕は、この問題を深刻化させた背景としては、“平等”以上に自由のほうから来る“自己実現強迫”のほうを強く感じ取っている。そして、韓国・日本に共通するのは、平等よりも自由に価値を置く“アメリカへの憧れ”が強いことで、それがもたらす“自己実現強迫”こそが、家庭を持ち次代を育む意欲よりも我が事中心主義を生み出しているように感じている。

 そのうえでとりわけ大きな影を差しているのが、日韓両国における教育・養育コストの過重さであり、子供に費やす金を賄った上で、強迫してくる自己実現に見合うだけの自己投資を図れるだけの所得は得られない社会状況というものが、少子化・晩婚化を決定的にしていると見ているから、先ず“儒教”と来たことには少々違和感があった。

 少子化・晩婚化問題に対する僕の基本的な見解は、本書読後も変わっていないが、前書きを読んだときに抱いた疑問のうち、教育・養育コストについては本書にても言及されるばかりか、教育熱が煽られることにおける儒教的価値観の影響を指摘していて、その部分には成る程と思った。そのうえで、教育費の援助を国が行なっても、ますますの競争激化をあおるだけ。対症療法的な対策をとるよりは、格差の是正や、社会の安全対策を進める方が、長い目で見た時には、少子化には効果がある(P69)としている指摘には大いに共感を覚えた。

 女性蔑視は、女性の強さに対する男の警戒心から生じているとの見解にも大いに頷けるところがあった。ちょっと気になったのは、東京・ソウル・上海でアンケート調査した結果の比較からそれにしても気になるのは、我が東京の負け犬達の姿なのでした。性体験は豊富、しかし交際相手はいない。いたとしても、「もっと他にいい人、いないかなぁ」と不満を持ち続け、寂しい時はついつい不倫……。(P191)との観方に窺える強い自虐性だ。そして女は子供を産んでナンボとか仕事も結婚も子供も、全て手に入れてこそ、本当に幸福な女(P196)といった表現などに潜んでいる換金評価(“ナンボ”)や強欲(“全てを手に入れて”)への囚われのほうに、言うところの“負け犬”状況よりも強い哀れさというか気の毒を感じた。著者が自認しているとおり、バブル期に女の華の二十代を過ごしたことの及ぼしている影響が強く窺える。それは、男女雇用機会均等法の施行や女性総合職の問題よりも、前述の換金評価や強欲への囚われが染み付いた精神文化という形でのツケのほうが大きいように思えた。セックス観にしても性的にゆるゆる(P189)すぐにセックスをさせてしまう(P223)といった表現に窺える“性の商品化”感覚に対し、肉体的満足であれ精神的満足であれ、性を主体的にコミュニケーションとして楽しむ感覚は微塵も窺えない貧しさを覚え、哀れと気の毒を感じてしまった。フィールドとベクトルが異なることが難点であって、高い経験値(P191)に難があるのではないような気がする。

 それにしても、日本での“負け犬”という呼称が韓国では“老処女(ノチョニョ)”、中国では“余女(ユーニュイ)”と聞き及ぶと、やはりこれは蔑称なのだという気がしてくる。しかも、どうやら異性間での視線以上に同性間においてより強く意識されている感じが強いように思えるところがまたまた哀れで気の毒に感じた。「それぞれが結婚できない理由」を端的に表現して「ゆるすぎる負け犬、迷いすぎる老処女、そして強すぎる余女」とした著者には、「負け犬たちの希望」として、求めても得られる余地が殆どなさそうな“結婚”よりも余女の強さへの憧れがあるようだ。だが、上海で聞いたとの「自分を大切にする」「舐められない」的な意味を持つ言葉“珍惜(ジエンシー)”(P233)を、“負け犬”達が“強すぎる余女”を志向することで得ようではないかとするメッセージへの共感は、婚活ブームに沸き、勤しんでいる女性達から、果たして得られるのだろうか。


参照テクスト:中村うさぎ 著『私という病』読書感想文
by ヤマ

'09.11.16. 講談社単行本



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