『瀧の白糸』('33)
監督 溝口健二


 文化庁主催の「全国映画祭コンベンション」と国際文化交流推進協会主催の「映画上映ネットワーク会議」の合同開催に参加した後、“関西で甦ったフィルム〜最長版『瀧の白糸』関西初上映”との触れ込みの上映会に臨んだ。主催は、文化庁だ。関西で甦ったというのは、白糸こと水島友(入江たか子)が法廷で自殺するシーンを欠いていた、関東での従来版に対して、京都(京都文化博物館)と大阪(共和教育映画社)に残っていたフィルムで補うとともに双方を比較して欠落箇所を埋めたからだそうだ。こういう地道な作業が施され、35ミリにブローアップされて東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されたと聞くと、映画にも文化財としてのきちんとした眼差しが向けられるようになったんだなと嬉しく感じられる。
 僕が七十年前のこの作品を初めて観たのは、二年前の“気骨のカメラマン三木茂特集”(高知県立美術館企画上映)においてだった。そのときには自殺シーンの欠落というような映画史上の知識を持ち合わせていなかったので、特に意識して観ていたわけではないのだが、今回、白糸の倒れる場面を観て、なんだか見覚えがあるような気がしたから、僕が二年前に観たのは関西版だったのかもしれない。関西版は、自殺シーンは残っているものの、欠落部分は関東版より多いらしいのだが、前回観たときに気になったフィルムの欠落状態からすれば、今回は非常に滑らかに展開していったような感じを受けたから、やはり僕が観たのは関西版だったのだろう。
 しかし、今回再見の機会を得て最も強く感じたのは、活弁において弁士の担っている役割の大きさだった。前回観たときは弁士が高齢のあまり、既に映画について行けなくなっていて、むしろ映画のリズムを損ない邪魔している結果になっていた。それに対し、今回は、当代随一の活弁士、澤登翠氏の語りによって流麗に朗々切々と言葉が刻まれていく。お話自体には最早、現在の感覚からは古色蒼然とも言えるくらいの顛末の古めかしさがあるのだが、語りが見事なせいで場内からは啜り泣きの声が漏れていた。僕自身においても、前回は物語を味わうような気分になれなかったので、専ら映像の展開や映像センスに着目していたから、あまり意識することがないままだったことに改めて気づいたことがあった。それは、物語の顛末や展開は、古式ゆかしい“律儀”というものに支配されてはいるものの、人物像としての女水芸人、瀧の白糸こと水島友の独立性なり自立性というのは、今なお現代的と言うに足るほどの鮮烈さを備えているということだった。
 村越欣弥(岡田時彦)に引き摺られるようにして学費支援を続けるのではなく、自らの甲斐性として、“義”を以て意志として貫くのだし、当初の学費支援そのものについても、厚意に応えると言うなら、立派に学問を修めて身を立ててみせると約束しておくれ、そして、今晩一晩あたしを可愛がっとくれと言うほどに、至って主体的で意志的な人物像で、決して誰にも何にも従属しない毅然さこそが白糸の人物像の核心部分なのだ。だからこそ、単にそれが真実だからということで殺人を告白するのではない。自分が選択して“義”を立てた村越欣弥に対しては、自分が嘘を言いたくないから告白するのだし、事件の顛末に対しては、法の定めながらも条理を欠いているとも思える罪咎を受けるくらいなら、自分で自分に始末をつける覚悟を貫くわけだ。徹頭徹尾、自律的な女性である。この気丈で美しい白糸の哀切を入江たか子は、得も言われぬ風情で演じていた。南京の下びた風情が絶妙だった村田宏寿や岩淵剛蔵の悪辣を強烈に演じた菅井一郎も印象深く、新蔵(見明凡太郎)と撫子(滝 鈴子)の未熟な純情との対照という配置も効果的だった。やはり名作との誉れ高い映画だけのことはある。そして、それらが本当に生かされていた、弁士の語りの見事さに感銘を受けた。

by ヤマ

'03. 9. 6. 海遊館ホール



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