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美術館秋の定期上映会“気骨のカメラマン三木茂特集”
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94年から最低でも四季の定期上映会と二回の特別上映会を毎年開催してきている県立美術館だから、既に上映会も五十回くらい重ねてきたことになる。おおむねどの映画会も既存の自主上映などでは叶えられない、地方都市においては画期的と言ってもいいくらいの充実した内容であったが、基本的には中央で企画した内容の巡回上映の選択に留まったものが大半で、美術館としてのキュレーター的業績と言うに足る仕事を果たしたのは、実は今回が初めてのことではなかろうか。 地元出身の映画カメラマンに着目し、その足跡業績に光を当て、映画作品を集めて上映するばかりか、高知県の視聴覚ライブラリーに埋もれていた16mmフィルムの発掘を果たし、戦前の貴重な写真の数々や戦後の発言を収録した価値あるオリジナルのカタログも仕上げている。その功労の第一が、カタログに「三木茂、気骨の世界〜ドキュメンタリー映画の世界に自分を見出すまで」と題するテクストを掲載している浜口真吾氏にあることは、カタログの編集人に単独でその名があるところからも明らかだが、これだけの仕事を果たす三十代の働き盛りの職員を非常勤職員としてしか遇しないのは、県立美術館なり高知県文化財団の見識が疑われることではなかろうか。 作品鑑賞としては、初日の記録映画は所用でほとんど観られず、牧野氏の話も伺うことができずに、亀井文夫監督作品として名高い『戦ふ兵隊』の上映に十五分ほど遅れたところからの参加となった。戦争とは即ち移動と運搬の日々であり、戦いの相手は、敵以上に日々の疲労にあることを無言のうちに語っていた。陸軍報道部で企画された作品ながらも上映禁止になったのが当然だと思われるほどに、戦意を高揚させようもない映像が続く。幻の反戦映画と言われていたものが再発見された当時には、高知でも日中友好協会高知県連合会と日中友好協会高知支部が共に主催者となって二日間の上映会をおこなっているのだが、僕自身は、今回初めて観る機会を得た。 続いてビデオ上映された『広島・長崎における原爆の影響』もまた、大変貴重な映像で、何年も前に新聞で「10フィート・フィルム運動」という募金運動を報じているのを観た頃から気になっていた映像で今回観る機会を得て嬉しかったのだが、撮影隊に高知出身のカメラマンがいたことは知らなかった。でも、それ以上に驚いたのは、彼が戦後設立した三木映画社が、占領軍に没収された原爆の記録フィルムを密かに焼き増して、日本が占領下にある間、ひっそりと保管し続けていたということだ。 戦後は、自社作品の製作撮影に携わりながら、記録映画以上に、より積極的に社会にコミットすべく、教育映画に情熱を燃やしていたようで、「ボクは自分で教育映画のプロデューサーだと思っているが、ほかの人は私のことをカメラマンが本職だと思っている」といった言葉を残していると聞くと、なるほど気骨の人だと唸らされる。 教育映画の作品群では、高度成長以前の日本の風景事物が窺えるのが何よりも大きな魅力だった。教室での先生の板書の文字がきちっと美しく、誰も彼もの日本語が落ち着きがあり、きちんとしている。映画に内容として込められたものがそうであったように、映画に映っていたものの総てが当時の現実そのものを等身大で写し取っていたとは必ずしも言えないとは思う。けれども、少なくとも当時の理想というものがどこにあり、何を目指していたかは明瞭に写し取られている。それに引き換え今、教育現場でこのように明確に、相応の説得力を持った確信とともに訴えられるような価値観があるのだろうか。そもそもが“ゆとり教育”などという、誰のゆとりを指しているのか怪しい限りのカリキュラム変えによって少なくなった学習時間のなかで、教科学習にほとんど総てが充てられ、視聴覚教育として教育映画や文化映画に触れる機会がどんどん奪われている現状を見ると、二十年以上も前に他界している氏の嘆きの声が聞こえてきそうな気がする。 三木茂が撮影をした溝口健二監督の名作の誉れ高い『瀧の白糸』は、サイレント作品なのだが、当時の状況を偲ばせる音楽と弁士をつけての上映ということで最も期待したプログラムのひとつであった。お話は、泉鏡花の原作を元にしたものとは言え、いささか古色蒼然としているのだが、映像センスは実にモダンで、映像の展開についてはちっとも古めかしく感じられない。だが、やはり圧巻は演出であり、水芸人白糸を演じた入江たか子の得も言われぬ風情であったろう。いささか残念だったのが、少しフィルムが欠落しているように感じられたことと、御歳八十を前にされた活動弁士わかこうじ氏の活弁が、寄る年波のせいであろうが、映画について行けてなかったことだ。先走ったり、遅れたり、男女の台詞を取り違えたり、長台詞をかんだり、と最早およそ芸として提示できる代物ではなくなっているのが痛々しく、また映画のリズムを損ない邪魔しているのが煩わしく、艶消しもいいところだった。 だが、逆に活弁というものが、いかに頭の回転やセンス、確かな記憶力の求められる芸なのか、ということを再認識させられたように思う。映画を始める前の話は面白く、当時の状況を語る時代の生き証人としての価値が大いにあったが、弁士としての起用は失敗だったと思う。御本人の話にもあったように、当時、弁士にはそれぞれ得意ジャンルというものがあったらしく、畑違いのものはやらなかったそうだ。それで言えば、わか氏は、新派悲劇(現代物)ではなく、旧劇(時代劇)を得意としていたのかもしれない。少なくとも、主催者側で事前に現在の彼の活弁を聴いている者がいたとは思えない出来栄えだった。 三木茂の登場作となった新藤兼人監督のドキュメンタリー作品『ある映画監督の生涯』は、その溝口作品『瀧の白糸』の撮影者としてインタビューを受けていたわけだが、柔らかな表情の奥に、厳しく手強そうな意志と学究的な体質を窺わせる三木氏の姿が、伊藤大輔監督ともども興味深かった。だが、圧巻はやはり田中絹代であり、彼女に執拗に迫っていった新藤監督の姿だ。そして、控えめにではあるが、溝口健二を映画監督として巨匠に至らしめた背景に、脚本でコンビを担った依田義賢の存在が大きいことを静に訴えていたところに感心した。 それにしても、今回の画期的とも言えるオリジナリティあふれる好企画が、これまでの高知県立美術館の映画会でも最低記録になったとおぼしき動員しか果たし得なかったのは、何とも残念だ。資料研究やカタログ製作に追われ、充分な広報活動に手が回らなかったのかもしれない。しかし、そういうときこそ組織対応としての活力と連携が補完機能として準備されているかが問われてくるのだろう。そんなに大きな組織でもないのに、残念な気がする。 メディアでの露出がいつもより弱かったように見受けられたことには場合によっては、メディア側にも問題があるのかもしれない。いつものように中央で企画された、ある種の権威によって冠を与えられた企画ではなかったことが関心を呼ばなかったのだとしたら、本末転倒ではないかという気がする。中央のマス・メディアのフォロ−が全く期待できないからこそ、地域のマス・メディアの果たす役割が大きいのだが、何が原因だったのかは解らないけれども、結果的に充分なパブリシティを得られないままに終わった上映会だったような気がする。 参考テクスト:「高知県立美術館公式サイト」より http://www2.net-kochi.gr.jp/~kenbunka/museum/miki/miki.work.htm | ||||||||||||
by ヤマ '01.11.17. & 18. 高知県立美術館ホール | ||||||||||||
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