『魔界転生』
監督 平山 秀幸


 もっと派手な視覚効果を駆使した魔界ものを見せて貰えるのかと思ったら、意外と平板な抗争劇でしかなく、深作版の『魔界転生』に横溢していた“荒唐無稽な因縁話のエスプリの利いた面白み”に乏しく、かなり残念なリメイクに終わっていたような気がする。キャラクターの造形や描き込みが深作版に比べて大きく見劣りがするように感じられた主因は、役者の力量や演出力ではなく、脚本にあったように思われる。魔界衆の転生について、それぞれの思いが充分に語られることなく、転生ありきで物語が展開していく。そして、柳生十兵衛(佐藤浩市)一人のヒーローもののような構成になってしまっていたのが、単純な善悪の対立軸を排除して物語世界の奥行を得ていた深作版と大きく違うところだが、失った奥行を補って余りある単純明快なエンターテイメントとしての充実がみられたかというと、非常に心許ない。
 ただ深作版を観ている者にとっては、それとの対照がけっこう興味深く、『おぼろ忍法帖』との題で新聞連載されたという山田風太郎の原作小説がどうであったのかは未読ゆえ置くにしても、随所に思うところがあった。例えば、深作版での名シーンだった宮本武蔵(緒形 拳)と柳生十兵衛(千葉真一)の対決は、海岸から野原に敢えて変更し、海での対決は宝蔵院としながら、十兵衛と云えども武蔵(長塚京三)だけは自力単独で倒せない形になっているところが同じだとか、紅蓮の炎に包まれて崩落する江戸城が、十字の亀裂によって雷雨のなかで瓦解する形に変わっていたりするところに、それぞれが深作版でもハイライト的な見せ場だったことを思い出し、面白みと苦心の跡を感じた。しかし、最も大きな違いとして印象深かったのは、幕府を揺るがせるために天草四郎(窪塚洋介)が企てる謀略が、深作版では飢饉の発生を仕掛けて農民一揆を扇動する形になっていたものが、今回は御三家紀州頼宣を扇動し、徳川家内部の御家騒動を誘発する形に変わっていたことだ。遺恨のために神を捨て、魔界に身を投じて徳川幕府に挑むに際して、罪咎なき民衆をも巻き込み利用するという悪に徹する四郎の凄みが、所詮は頼宣(杉本哲太)自身の私欲に根ざす内部抗争の企てになったのでは、大幅に減じられてしまう。
 今回の作品で意表を突かれたのは、神君家康公の転生だった。麿赤兒が演じていたように思うのだが、その登場に、そうかこれがあったかと喜んだものの、ちっとも生かされてなくてがっかりした。家康の転生を巧く生かしてこそ、徳川家の御家騒動にしたことにも妙味の備わる余地があったのにと残念でならない。
 深作版で最も魅力的な人物造形を施されていたガラシヤ夫人が登場しなかった代わりのように、今回前面に出てきていたのがクララお品だった。人物造形では、ガラシヤ夫人に及ぶべくもないながら、演じる女優としてはガラシヤ夫人の佳那晃子を遥かに上回る魅力と異彩を麻生久美子が放っていたように思う。高貴の色でもある紫の着物が非常によく似合っていた。窪塚洋介は、深作版の沢田研二のような妖しの魅力は発揮していなかったが、近頃少々耳障りだった口調を止め、十兵衛との対決場面では充分な存在感を発揮していたように思う。最後の対決場面の後も、続編に繋げ得るようなエンディングにしてあるのは、深作版もそうであったように思うのだが、続編製作とはならなかった“沢田”四郎と異なって、“窪塚”四郎は再び転生してくるのだろうか。

by ヤマ

'03. 4.26. 高知東映



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