『折り梅』をめぐる往復書簡編集採録
多足の思考回路」:めだかさん
ヤマ(管理人)


 
・・・巴が乳房で感じたもの・・・

(めだか)
 この作品の感想をしておいでのサイトってあまりないんですよね。嬉しかったです。
 乳房に言及しておいでのところに、参った!と思いました。恥ずかしながら、私にはどうしても触れることができなかった部分です。女なのに〜(>_<) 解釈を進めることを拒否したシーンなのです。なんか、悔しいです(笑)。


(ヤマ)
 『暗い日曜日』に続いて、オッパイばっかにこだわっていて恐縮ものだけど(笑)。
 もっとも僕が愛好するのは、ホントはオッパイ以上にお尻なんですけどね(あは)。


(めだか)
 乳房の話に触れるのが恥ずかしいというのもありますが、実は全然、理解できなかった部分なんですよ(苦笑)。我が子をそれで育ててはいるわけですが、思いつかなかったんですよね。


(ヤマ)
 それを言われると、僕の乳には房がないから、理解の示しようがなくなるんですけどね(笑)。もっとも、ついてないからこそ、平気で立ち入れるって側面ももちろんあるんだけど。


(めだか)
 あのシーンって関係の転機だから、本当は無視していい場面じゃないんですよね。苦手意識から自分の感想では触れるのをすっ飛ばしてしまった部分なのですが、良いヒントを戴けたのでちょっと真剣に考えてみました。
 でも、自分が他人にそれを触られてどう思うか? というのは、う〜ん(-_-;)微妙。


(ヤマ)
 これは、僕には「う〜ん(-_-;)微妙」どころか、さっぱり?ってとこだ(笑)。


(めだか)
 いきなり他人に電車なんかで触られたら思い切り払い除けるか、エルボーを鳩尾にかますかといったところで(笑)、身内なら(・・?といったところかな。でも、映画では触らせるまでにいろいろありますから、状況に自分を当て嵌めて想像してみました(笑)。


(ヤマ)
 僕の場合ただ、自分には付いてないからこそ、ふーん、そーなのかー、そうだろうなーって、説得もされやすいってわけで(笑)。
 白紙だと染まりやすいんよ、要は(笑)。


(めだか)
 うん。単純に考えたら、女性の場合は、胸に触られるのって性交渉か育児かの二通りで、この場合は後の方が相応しいだろうけれど、男の方は、それで子どもを育ててるわけじゃないから白紙ですよね(笑)。というか、白紙じゃなかったら怖いかも^^;
 私は育児=母性と考えていたので理解拒否してたんですね。ああいう状況で「おかあちゃん」と言いながら胸に触られることに、母性本能が起こるというのはないと思うんですよ。所詮、私の想像ですから主観ですけれど^^;。私だったらないなあ、と。


(ヤマ)
 巴にしても、母性本能を触発されたということではないと僕も思ってる。自分のなかのそういうものが触発されたのではなくて、おっしゃるように母性に付属する器官を有していたことで、政子の母性への飢餓感というものを実感できる形で理解できたというところに最も大きな意味があると思っているんだよね。


(めだか)
 その母性に付属する器官・・・というのが全くピンときてなかったんですよね(笑)。もしかして、これは男性の方が反応できる部分なのか。それとも私が疎いだけか。どっちかというと後者のような(苦笑)。
 そもそも、母性本能って信じてないんです(苦笑)。母親らしくないですが。


(ヤマ)
 人間というのは、母性であれ、性であれ、元々本能が壊れている存在で、そこが動物と峻別できる人間のアイデンティティであるとさえ考えている人もいるくらいで、僕にしても母性本能というのは、あまり信用していない(笑)。でも、女性に母性本能はなくても、母性は備わっていると思っているね。母性本能というのは、言わば母性を本能として優先発揮してしまう仕組みっていうことであって、そういう本能の存否と母性の存否とは直ちに連動しないよね。


(めだか)
 ふふふ〜。じゃあ男性にも母性というのがあっていいじゃないですか。あ、男性の場合は父性ですか(笑)。基本的にはそう違いがなさそうに思いますが。


(ヤマ)
 女性の環境順応力の高さとか、防衛心の強さとか、生命体としての強靭さとか、どれも母性とは強い関連があると僕は思ってるんだよね〜。
 原始的な形態を想像してみると、子供を直接的に愛護するのは、母たる女性の母性としての役割で、母子を外敵から守ることが、子の父たる男性の父性としての役割だったような気がするんだよね、人間の場合は。でも、それが本能としてまで組み込まれているのかどうかは、そう言い切れないくらいに欠落事例が多発しているから(笑)、本能ではないようにも思うけどね。


(めだか)
 原始人類の育児形態・・・というところからして、実は男性はシステムには組み込まれてないんですよね〜。ということは、やっぱり本能なのでしょうか(笑)。
 いろいろ子どもを持った(産んだ)時の感想は人によって様々ですが、私の場合はやっぱり感激でした。巧く言えないですけれど、親になったというよりも独りの人間が自分から現れたということに物凄く感激したのです。


(ヤマ)
 これの中味は、僕ら男には想像も及ばない領域だけど、きっとそうなんだろうな。


(めだか)
 お腹の中にいるときも、大きくなるに連れて自分の意思とは別に動いたりするのが感じられる・・・というのは、別の生物が体の中にいるということの実感で、それが実際に外に出て完全分離の瞬間なわけです。


(ヤマ)
 これを体感できるのは凄いことだよね。非常にシンボリックなイメージを含んでいる内容を身を以て体験するんだからなー。


(めだか)
 相手が自分と同類の人間だという認識がなかったら、育児って私にとってはペットを育てるのと大差ない気がします。


(ヤマ)
 この観点は非常に重要だよね。人によっては、逆にペットを子供として育てている場合もあるし、愛情を持って育てることにおける違いは、何に起因するのかってことだね。


(めだか)
 生き物飼育が趣味のようなものなので、いままでいろいろな動物を飼育してきましたけれど、猫や犬の子を育てるのとやってることは変わらないし、愛情も似たようなもんです。猫の子も3時間おきにミルクをやらなくちゃいけないし、離乳食はしなくちゃいけないし、体調に気を配ってトイレトレーニングして、一人前になったら勝手なことをするようになって・・・(笑)。所有するものや育成したものへの愛着も愛情と言えると思いますけれど、これはペットと子どもの区別なく湧くもんなので。違いはペットは持ち主に所属するけれど、子どもは独立した存在だってことでしょうか。


(ヤマ)
 この違いというのは、めだかさんにとっては有効でも 、そうではない人もいたりするよね。でも、そういう人も自分の子供だという認識には変わりがなかったりする(笑)。


(めだか)
 そうなんですよね(笑)。非常に残念ながら、親同士で付き合う場合には、ここで食い違うと、話をしててとことんずれるので、話にならなかったりして苦労どころです(笑)。自分にはこの考え方が有効だけれども、他人にはそれまでの経験で他人のやり方があって、それはそれで良くて、私には係わりはないです。
 とはいうものの、このところ読んでいる本が『少年に我が子を殺された親たち』というもので、内容の加害者の親たちの我が子の犯罪と被害者への無関心さにちょっと寒気がおきました(汗)。あ、あんまり親が子を突き放すのもまずいかな〜^^;なんて(笑)。


(ヤマ)
 そういう親の元に育った子供の全てが犯罪に走るわけではなくとも、犯罪に走る子供になっても故なしとはしない状況が窺えるというわけだね。


(めだか)
 邪魔であったり、嫌ったり、荷物と感じられる相手というのは、どこかで相手の人間性を無視して物質のように対象化して、対等とは見なさなくなっていると思います。育児って、常にこの感覚との戦いのようなもので^^;逆に、育児って相対するものが同等の人間であるという意識を喚起させられることでもあります。


(ヤマ)
 これも育児における重要な観点だなー。人間同士の距離感における対象化の加減って本当に根元的課題だよね。それを最も日常的な形で不断に迫られるのが育児というわけで、母性に「タフ」という因子が必須となるはずだよね(笑)。


・・・人間関係における距離感・・・


(めだか)
 ようやくヤマ様の『ロード・トゥ・パーディション』の掲示板採録を読めました(笑)。


(ヤマ)
 ありがとう。


(めだか)
 掲示板は拝見していましたが、内容は忘れてましたね。それとも対談形式に直したからでしょうか。こんなことを話しておいでだったかな?と、とても新鮮でした。「距離感」に言及しておいででしたね。


(ヤマ)
 うん。あそこんとこが、一番面白いやり取りだったな〜。


(めだか)
 それを思ったら、朋江が胸を触られて母親と呼ばれたことで引き起こされたものって、負担に感じて無視してきた義母の人間性の認識じゃないか?って気がしてきました。


(ヤマ)
 そうそう。政子の飢餓感に気づかされたんだよね。その飢餓感というのはまさしく人間なればこその飢餓感であり、なおかつ巴から見て、贅沢や我が儘ではなく、根元的なものとして実感的に受け入れられるものだったということだよ。


(めだか)
 当然、アルツハイマーになる以前は持っていたはずの義母に対する感覚を、朋江は忘れていたのではないか、と。
 それを思い出すまでの過程として、義母の人生の理解がその前にあり、胸が意識の機転となったという観方もあるかな、と。まあ、母性というのが理解できない私の理屈ですけれど(笑)。(なんだか自分で言ってて母親として情けないかも^^;)


(ヤマ)
 なるほどね〜、既に人間視していなかったとまで観るわけだね。


(めだか)
 いえ〜、そこまで極端なことは言いませんけれど(笑)。


(ヤマ)
 これはかなり手厳しいね。反発や不満、怒りのレベルを超えていたと。


(めだか)
 でも、誰でも尊重←→対象の間は、気持ちをぶれさせながら人と付き合うものでしょうし、邪魔に思い出したら気持ちは対象化に寄っていくかな〜と。勿論、それで反発・不満・怒りは排除されるものではないですから、同時にあり得ます。自分の夫を産んだ人という意識はどこかに飛んでたんじゃないですかね(笑)。


(ヤマ)
 でも、あの晩のことで人間としてみるまなざしを取り戻したということだね。う〜ん、巴と政子の場合が、そこまでの極に至っていたのかな〜。


(めだか)
 でも、そこに至るまでに二人の仲が進んだということ自体、ヤマ様のおっしゃるように本当に幸運なことですよね。


(ヤマ)
 こういう説得力っていうのかなぁ、『13階段』には皆無だったよね。


(めだか)
 でも、もうひとつヤマ様の日誌を読んで初めて気が付いたのは、あの映画がほとんど女性の手になる作品だということでした。全く失念してました^^; 。


(ヤマ)
 僕は映画を観てて、余りの男の影の薄さから確かめた次第だった(苦笑)。


(めだか)
 どうりで女性から見て(といっても私だけですが;)女性の心理がバランスいい、馴染みの良い映画だったわけだと思いました。


(ヤマ)
 逆に出ることがありそうな気もしたりするけどね(笑)。


・・・めだかさんの『折り梅』から・・・


(ヤマ)
 それはそうと、めだかさんの『折り梅』も拝読しましたよ。
 「巴の台詞の一つ一つが、妻として母親として女性として、だいたい筋が通って普通の家庭の主婦として理想的に良い精神状態と行動の女性のように見える。」
 これが作品的には傷にもなりかねないところなのに、うまく描かれてるよね。


(めだか)
 極端になってないんだと思います。どれかひとつを主張しすぎると、観る側に反発が来ると思うんですよね。


(ヤマ)
 映画に限った話じゃないよねー(しみじみ)。でも、時には反発を恐れてはいけないときだってあるし。主張というのは、本当にむずかしいものだよね。


(めだか)
 どれも感じ取れて流せるギリギリのところで止めてるようで、巧いと思いました。ツッコミ好きな私だけれどツッコムほどじゃないな、という感じです(笑)。 ん〜、主張は難しいですねえ。ほんと(ため息)。組織の中での賛同が得られ難いと分かっている状況での主張は、特に難しいです。つくづく。


(ヤマ)
 「この作品は話が感情を中心に巴側から進められているように見えて、実はこの感情の行き違いの動きが双方からのものであったことを窺うことができる。」
 これは非常に大事なポイントだよね。


(めだか)
 政子の心理が言葉で出てくるのは、最後に近くなってからですけれど、なんだか身につまされました。世話を焼かれすぎるのが嫌なのは、私も同じなので(笑)。


(ヤマ)
 誰だってそうだよ。


(めだか)
 それに我が家も、子供の頃は似た環境でしたし。  祖母が寝たきりだったんですが、よく母に癇癪を起こしてました。でも、感謝もしていたんです。本人には意地でも言わなかったですけれど(苦笑)。世話を焼かれるほうは、プライドがボロボロですよね。


(ヤマ)
 そうそう。だから、強く虚勢を張った形に出るよね。でもって攻撃的になるとしたもんだ。弱い犬ほどよく吠えるっていうのは、弱いからこそ、吠えるしかない情けなさっていうのもあるわけで。
 でも、みっともいいもんじゃないし、うるさいのは事実だし、難儀だよね。理解はできても許容できるかどうかは、ケースバイケース。
 「政子にしてみれば、感謝すべきという感情と支配に対する反発があり、そのせめぎ合いで自分をコントロールできずに、巴への絡みや暴力という形となって表に出たのだろう。一方、巴は、自分の信念にそって仕事を続けなくてはという強迫観念と、問題の直視を避ける夫を頼りにせず、自分で全てを背負おうとする気負いで、自分自身を追い詰めていく。家庭という、外には見えない、あるいは見せることを嫌う閉鎖した人間関係の澱みがここにある。」
 この物語の核心部分がここにすくい取られてます。お見事です。


(めだか)
 今でもうちの母親は、父親が頼りにならなかった愚痴を言いますもの。どうやら一生の恨みになってるらしいです(笑)。もう、本当にかつての我が家を見るようでした(笑)。もっとも祖母は、最後まで非常に鋭利な精神の持ち主で、アルツハイマーには程遠かったですが。
 映画では子供にそれほど皺寄せが行っていなかったのを、話をわざとそこまで持っていかなかったと見るべきか、だからこその後の好転と見て良いのか。


(ヤマ)
 娘から反抗的な態度とともに厳しい指摘を浴びる部分があるくだりに、義母を引き取ったことで親子に波立ちが起きたことは窺わせてたけど、立ち入っては行かなかったよね。キビシイ突っ込み処だね(笑)。


(めだか)
 もっとも子供への影響までストーリーを持っていくと、話が別のものになってしまってたと思いますが。


(ヤマ)
 そうそう。だから、映画としてはあれでいいんじゃないかね。
 そして、「共に生きるならば、互いに対等に尊重し合うことこそ、親交の基本としてあるべきなのだろう。そのために、依存するでもされるでもなく、共に根を張り、独立し、枝を差し伸べ合う。人として当たり前のことだが、なんと見逃されやすいことでもあるのだろう。」ということを作り手はよく知り、またそれが難しいことでもあることをよく知っているんだよね。
 だからこそ、巴と政子の関係が融和して絵画教室に通うようになった段階でもなお、政子の絵に口出しして、つい支配被支配の葛藤を再現させてしまう場面を抜かりなく描き出していたんだと思う。
 これは、けっこうエライ!と思ったね。


(めだか)
 そうなんですよね。対応の仕方については、巴がまだ仕事をしていた頃に専門のヘルパーさんが家事を手伝いに来ていたシーンでも、丁寧に出ているんですよね。その辺からもさりげなく家族の中の支配被支配の関係を見せている。でも、これを解消するのは本当に難しいです^^;


(ヤマ)
 これ、家族問題の描写においては、キーポイントだよね。愛と情の関係のなかに潜む支配と従属の関係って。人間関係を描いたものでは、どれにも当てはまるとも言えるけど、人と人との距離感をどう捉えているかってとこ、大事だよね。


(めだか)
 一方だけが関係の問題点に気付いても上手くいきませんし。まして相手が病人となると、妥協点を探るのには余程の互いの理解が必要でしょうね。気持ちを通じ合わせる気や時間がなければ、精神的にはリスクが大きくても、支配被支配という関係のほうが能率的であるというのは分かります。余裕の持てない家庭では当然そうなるでしょうし、それは、病人や障害者のいる家庭に限らず、今の社会全般に当て嵌まることだと思います。


(ヤマ)
 だからこそ、組織の論理は常にコレに傾いていくよね。特に能率や効率を価値観として上位に置くようになると余計に。


(めだか)
 だから、組織って私は苦手なんです(-_-;)


(ヤマ)
 得意というか、好きな人はいないでしょう(笑)。


(めだか)
 う〜ん、分からない。でも、集団傾向も人間の本能のようだから、それで苦手だ〜!て文句を言っても仕方がないですね(笑)。


(ヤマ)
 それはそうだね。苦手だ、嫌いだとか言ってても、それなしでは生きていけない側面も確かにあるんだからね。


(めだか)
 ところで、映画ではそこまで語っていませんけれど、この映画を「共存」というテーマに充てて提供した新ゆり映画祭のスタッフって慧眼だと感心しました。


(ヤマ)
 読み取った方も慧眼と言うべきだろうけど(笑)。


(めだか)
 う〜ん、誉められたようで嬉しいです。でも、私の感想は、先に答えを見せてもらってそれに沿って式を充てたようなものですね^^; だから肝心な見所を抜かしてる〜(大汗)。そこを考え直す切欠を下さったヤマ様の日誌に感謝です!m(__)m
 で、スタッフに感心したから、他の映画も観たかったんですけど、祭りの間は一日1本鑑賞がやっとでした^^;。今年こそは・・・と意気込んでます(笑)。

編集採録 by ヤマ

交換メールより



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