『暗い日曜日』(Gloomy Sunday)
監督 ロルフ・シューベル


 この物語がどのていど史実に基づいているものなのか、僕には何らの知識もないが、最後に至る鮮やか過ぎる顛末を観ても偲ばれるように、楽曲のイメージやそのまとっている伝説をモチーフにして、相当自由な創造を加えて造形された作品だという気がする。だとすれば、この楽曲の生みのミューズたる位置づけをされたイロナ(エリカ・マロジャーン)の存在は、実在した女性ではなく、『暗い日曜日』という楽曲のイメージを体現するシンボリックな存在なのだろう。

 商才に長け合理性を重んじるユダヤ人のレストラン経営者ラズロ・サボー(ヨアヒム・クロール)にしても、ナイーヴな芸術家肌のハンガリアンとおぼしきピアノ弾きアンドラーシュ・アラディ(ステファノ・ディオニジ)にしても、権力志向の強い硬直型の性格をしたドイツ人で、貿易商からナチス将校になったハンス・ヴィーク(ベン・ベッカー)にしても、それぞれがいかにもその民族性をまとったキャラクタ-造形を施されており、なおかつ一様に、抗しがたい彼女の魅力の前に、まるで囚われるようにして彼女を愛し、その官能性に魅了されると、甘やかな陶酔感と同時に切なく苦しい想いに胸が締めつけられる部分を余儀なくされるわけだが、それこそまさに『暗い日曜日』という楽曲の持つ味わいそのもので、楽曲をモチーフに造形した物語世界として見事と言うほかない。国籍を越え、禁制処分を受けてもなお歌い継がれた曲の力にも似た、イロナの魅力の抗いがたさに対して、ラズロは、全てを失うよりは少し我慢をするのだという合理性で臨むし、アンドラーシュは、一旦は躊躇いを見せながら、部屋を出ていくイロナを追いすがらずにはいられなかった。ハンスも幾度かは自制しつつも、結局は権力の誇示を背景にして想いを遂げる。

 イロナには、バスタブでラズロに「そこは背中じゃないわ」と囁きながら睦みつつ、恋情でアンドラーシュを誘い身を任せても、ふしだらには堕しない気品というものがある。ラズロのためにハンスを頼ったときも、いささかの卑しさもなかった。そこにはまた、広く大衆的に支持を得て、さまざまなアレンジで演奏されようとも、扇情的に流れるだけには堕していかない『暗い日曜日』という楽曲の品格が重なっていよう。こういうイロナを体現できる女優を得たことが、この作品を魅力あるものにした最大の要因だと思うが、エリカ・マロジャーンは、その蠱惑的な瞳と表情に毅然と伸びた背筋、そして白く豊満な乳房でもって、観る者に有無を言わせない。すっかり僕は魅了されていた。

 楽曲自体の持つイメージを絶妙の人物像として体現させていることに加えて、この曲が持っている死にまつわる伝説を偲ばせるエピソードを盛り込みつつ、『暗い日曜日』たる彼女と交わった男たちはみな天寿を全うしない死を余儀なくされる物語が展開されるのだ。さらには時代を象徴していたとも言われるこの歌の生まれた“死の匂いに満ちた時代”を描き捉えることにも、一人の女性を巡る三人の男たちの劇的な人生を織り込んで、見事な冴えを発揮している。加えて、六十年余の時を経て生き延びた『暗い日曜日』たるイロナが、当時の怒りと無念を晴らすことで、今現在のものとしても楽曲が息づいていることを表してさえいるようだ。

 全くたいした造形力で、構成的にも隙がなく、楽曲のテイストそのままとも言える“大人の味に満ちた娯楽性”の豊かな作品だ。もし、この映画を気に入らないと受け取る人がいるならば、おそらくは彼ら四人の物語にリアルな人間模様のみを読み取ろうとした場合だけだろうという気がする。そういう面でのリアリティにこだわらなかったり、あるいは楽曲というものをモチーフにして投影された人物像や関係性の造形について思いが及んだりすれば、およそ賞賛するしかないほどの出来栄えに惚れ惚れとしてしまうに違いない。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2002kucinemaindex.html#anchor000818
推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/gloomy_sunday.htm
by ヤマ

'03. 2. 7. 文化プラザかるぽーと



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