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『大地と自由』(Land And Freedom) | |||||
監督 ケン・ローチ | |||||
第二次世界大戦の直前、スペインで起こったあの戦いが、歴史の教科のなかでは内乱や内戦といった形に矮小化されて表現されることに対する疑問と憤りは、随分前からいだいていたが、これは日本に限った話でもないようだ。確かに戦場自体は、スペイン一国内に限られていたかもしれないが、世界の数十か国から個人が人民兵士として参戦した戦いは、他に例がなく、本当の意味での世界大戦とも言うべきものは、むしろ、この戦争以外にはなかったのではないかという気がする。規模が大きいという意味だけでの「世界」や「大戦」ではない、大きな意味を持っていたという点でまさしく大戦であり、これまでの戦争とは際立った違いがこの戦いにあったことを、この作品はよく伝えている。 それ以前の戦争もそれ以後の戦争も、戦争というものは、総て国もしくは宗教の覇権争いであり、利権の争奪戦である。いわば、権力と権力とのぶつかりあいなのだ。人民解放戦線を標榜してはいても、その組織自体が権力構造化していて、求めているものも結局は、権力のすげ替えだったりする。そして、世界中から個人が自由意思で理念と理想のために現実の力として参戦するなどということは、ありえなくなっている。わずかに日本赤軍が世界革命と称して過激なテロ活動をしていたなかに部分的にその名残りが窺えるが、世界の人民の支持も得られないなかでの誤った方法論に訴えるしかない無残なありさまだ。 しかし、この作品で興味深いのは、ファシズム対人民戦線、全体主義対民主主義という構図で捉えられることの多いこの戦いにおける敗北の構図を、スターリン主義という極めて権力的な構造を持つ覇権主義に翻弄された人民戦線の内部崩壊として捉えている点だ。やはり、そうだったんだろうなという思いとともに、日本における学生運動の輝かしい成果であったはずの戦後間もない時期の全学連闘争や六〇年安保闘争の主役を担ったブント全学連の解体や混迷に、結果的に一番大きな役割を果たしたのが日本共産党だったことを連想した。 内部組織に権力構造を持ち込まないようにして自由を体現化しようとする組織は、やはりどうしても組織力は弱く、継続する力に乏しい。また、外部から自由に持ち込まれるものによって内部から崩壊していく危険性も高い。その際、内部崩壊を招くものとして外から入ってくるものは、当然のことながら、自明の形で組織が対立をしている敵ではなくて、味方や同志あるいは支援者として入ってくるのがほとんどだ。人民戦線の精神の象徴とも言うべき存在である女性兵士ブランカの最期のありようは、象徴的にそのことを物語る劇的な場面だった。この戦いにおいて、人類に何が問われ、それがどのようにして失われたのかを雄弁に語っている。 監督は、「スペインの革命は、当時のスターリン・ソビエト共産党の国際政策のために打ち砕かれました。そしてイギリスやフランスの西側諸国は自らの利権のために共謀してスペインのファシズムを助け、スペインの民主主義を孤立させたのです。その過ちのために、人々は内戦について黙して語らぬようになりました」と述べているらしい。しかし、過ちのために人々が語らなくなったのではなく、そもそも過去の出来事に対して歴史という形で史観を提示するのは、常に勝者すなわち権力の側なのである。国際政治の東西を問わず、権力の側にある者にとって、スペインでのあの戦いに参集した人々の理想と精神が、歴史上の事実として現実に起こったことだと人民の総てが知るようになることは、実はたいへんに恐いことなのである。短期間であったにせよ、共和国政府に対するフランコ将軍の軍事クーデターを、スペイン本土では農民や労働者による人民戦線が鎮圧してしまったのだから、凄いことなのだ。だからこそ、権力の側は、矮小化し、忘却を促すのである。 そして、ケン・ローチ監督は、それに気づいているからこそ、権力側の歴史教育に異議を唱えるなどという暖簾に腕押しをするのではなく、人民の忘却に対し疑問と警鐘を提示しているのだと思う。忘れ去られた人民兵士デヴィッドを主人公にして、彼の死を契機に孫娘が五十年以上の時を経て、振り返るという構成はまさしくそのことを物語っている。 | |||||
by ヤマ '97. 9.18. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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